2024年8月4日礼拝
ヨハネによる福音書20章19~23節
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
主イエスは、復活の日の夕方、弟子たちの前に現れておっしゃいました。「あなたがたに平和があるように」。これが、復活された主イエスの、公の第一声です。実に、このことを告げるために主イエスの十字架と復活があると申し上げることができます。主イエスはご自身の全存在をかけて、私たちに平和を与えようとしてくださっています。そのために、十字架の死を引き受けて、ご自身の命さえも惜しまれませんでした。
続いて主イエスは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と告げて、弟子たちに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。主イエスは、ここで赦すことを命じておられます。赦すことを命じて、「聖霊を受けなさい」なのです。聖霊は赦しをもたらす神の力です。平和とは決して力尽くで勝ち取るものではありません。平和は赦すことから来る。聖霊が、平和を私たちに与えてくださる、神の力です。
鍵がかけられ、戸が閉められている家の中に、主イエスは現れました。とても示唆に富む出来事です。鍵をかけて閉じこもり、身の安全は確保できたかもしれません。そして、平和とは、一般的には、身の安全の確保、物理的身体的な安全でしょう。ところが、戸締まりをものともせず、主イエスは弟子たちの前に現れました。皮肉なことですが、この事実は、家の戸締まりが平和を約束するのではないと明らかにしています。本質的なこととして、平和とは身の安全とは別のことなのです。自分の身の安全を確保しようとして、身を固くしてしまう、高い壁を造ろうとする。しかし、本当にそれが平和を創り出すことなのかと、主イエスは問いかけます。むしろ身を柔らかくして心を開き、互いを理解し合う道があるのではないか。傷つけられることがあっても、赦し合うこと、受け入れ合うことによって、平和を造り上げる道があるのではないか。主イエスは、そのような別の道、もう一つの道を指し示しておられます。
「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。この主イエスの言葉はとても恐ろしい言葉です。赦してほしいと願っても、ごめんなさいと言って謝っても、あなたがたが赦さなければ赦されないまま残る。赦さないならば、罪を犯した人はその罪を抱えたまま、心の痛みを抱えたまま生きなければならない。傷つけられた人と同じように大きな心の痛みを抱えて、どちらも苦しみに縛られたような関係の中で生きていかなければならない。赦されないまま残してよいのか、そう問いかけられて、もちろん、赦すことが求められているのです。
生けるまことの神は、私たちを愛して、私たちの罪が赦されないまま残ることがないために、尊い独り子を十字架の死に引き渡して、罪の贖いとされました。そうして、生けるまことの神は、もはや私たちを罪に定めず、むしろキリストに結び合わせて神の子として生きることへと私たちを招いてくださいます。そこに平和があります。こうして、「あなたがたに平和があるように」と言って罪の赦しを告げてくださるお方こそが、私たちに与えられているまことの救い主なのです。
この平和を生きるとき、そこには苦しみ痛みがあります。いやな人がいても排除しないのです。主イエスが傷を受けることを引き受けられたように、私たちも傷を受けることを引き受けるのです。ですから、簡単なことではありません。けれども、だからこそ人間として謙そんにされ、訓練され、まっすぐに生きることができるようにされるのではないでしょうか。「あなたがたに平和があるように」と告げる、この主イエス・キリストにならい、平和を創り出す者として共に歩んで参りましょう。