2024年5月19日礼拝
使徒言行録 2章1~13節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1~4節)
ペンテコステの日、集まっていた弟子たちに聖霊が降りました。「激しい風が吹いてくるような音」、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」とは、主なる神の臨在のしるしです。神ご自身が弟子たちと真実に共にいてくださり、聖霊降臨の御業を成し遂げてくださいました。ですから、この出来事の主語は、生けるまことの神です。生けるまことの神が弟子たちに聖霊を遣わし、聖霊を注いで、主イエス・キリストの福音を力強く宣べ伝える共同体、キリストの教会を建て上げてくださいました。
その一方で、集まっていた弟子たちはどういう人びとだったでしょうか。彼らが勇猛果敢に主イエスに従うことができていたというのではありません。たとえばペトロは、主イエスを愛して従っておりながら、土壇場のところで主イエスを裏切りました。ほかの弟子たちも似たようなものであり、彼らは皆、自らの無力と惨めさ、罪の深さに打ちのめされていたでしょう。自分の願う通りに生きることができない、それが私たち人間の弱さであり、罪でもあります。私たちはしばしば自分自身の思いと言葉を裏切る行動を、自ら、してしまうのです。
ですから、ペンテコステの出来事は明らかにしています。すなわち、神の御力を前にして人間の有り様は問題にならない、人間の有り様は神の御業の妨げにならない。打ちひしがれて、力を失っていた彼らの状態は、生ける神の御業を妨げるものではありませんでした。そして、それはペンテコステだけでなく、今の私たちにおいても同じです。もちろん、私たち自身、主イエスを愛する気持ち、主イエスに従う気持ちがあることは、信仰者として大切なことです。けれども、私たちは失敗することがあり、挫けてしまうことがあります。しかし、それは神の御業の妨げにはならない。私たち自身は、自らの罪と弱さに打ちひしがれて、立ち上がることができないことがあります。もはや希望がないと思われることがあります。しかし、生けるまことの神は、その力ない私たちにこそ聖霊をお遣わしくださり、聖霊において私たちの内に住み、私たちを造り変え、力を与えて、新しい命に生きる者としてくださいます。
私たち、教会に生きる者に求められていることは、この神の御力、その御業を信じることです。そのところで、生けるまことの神ご自身が力強く教会を生み出し、建て上げてくださいます。伝道と教会形成は、私たち人間が用いられて成し遂げられていきますが、決して人間のわざではなく、神の御業、三位一体の生けるまことの神の御業です。
そして、私たちがその器とされるために、御父は独り子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。神の独り子である主イエス・キリストが、私たちの罪ととがを引き受けて、すでに肉を引き裂かれ、血を流されたのです。そのキリストに結ばれて、私たちの罪はすでに赦されています。聖霊が注がれ、エレミヤの約束にある通り、神の御言葉が私たちの心に書き記され、真実に主の御心に聞き従うことへと造り変えられます。私たち信仰者は、その途上の旅路を歩む者とされているのです。
弟子たちは、この聖霊によって、ほかの国々の言葉で話しだしました。これは象徴的なしるしとしての出来事で、大切なことは「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」(11節)とあることです。神の偉大な業を全世界に告げ知らせるために、私たち一人ひとりが器として用いられます。私たちには、個性があり、自らのものとして獲得してきた信仰があり、言葉があります。信仰のあり方や言葉には違いがあり、個性があるでしょう。聖霊に導かれて、それらが生かされ、用いられて、自分たちの言葉で神の大きな御業を語る者とされていく。私たちは皆、こうして神の偉大な御業を告げ知らせる者として召されているのです。