2025年6月8日礼拝
使徒言行録 2章1~13節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1~4節)
五旬祭の日に、主イエスの弟子たちが一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。そうして聖霊が与えられ、弟子たちは、ほかの国々の言葉で話し出しました。
その一方で、それを聞く人びとがいたことが大切です。物音を聞きつけて集まってきた人びとは、「天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人」でした。彼らは外国生まれ外国育ちで、ユダヤの言葉をあまり理解できません。このとき、彼らはそれぞれの出身地の言葉で神の言葉が語られるのを聞いて驚いたのです。すなわち、主なる神は、神の真理を彼らの理解できる言葉で聞くことができるようにしてくださいました。この点で、「ほかの国々の言葉」の「言葉」はグローッサで、「舌」を意味します。「炎のような舌」の「舌」がグローッサです。舌が与えられて、話すことができるようにされました。この聖霊のゆえに弟子たちは世界のさまざまな国と地域の言葉で話し出し、神の偉大な御業が世界中の人びとに伝えられることになりました。今や、私たちは、日本語で神の御言葉を聞くことができる幸いに入れられているのです。
さて、ペンテコステの出来事は、しばしばバベルの塔の物語(創世記11:1-9)と対比されます。人びとは、同じ言葉を使って、同じように話していました。しかし、「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と言ったように、人間には自らを神とする傲慢があり、人びとは自らを神とすることで一致したのです。そのため、神は言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにされました。人は、罪ゆえに自分の力を誇り、自らの利益や名誉を求めることで一致してしまう。そうであるならば、むしろ不一致がよいということでしょう。それに対してペンテコステにおいては、ほかの国々の言葉、さまざまな言葉が話されて、聞くことができないのではなく、むしろ聞くことができるようにされました。神の真理を自分の理解できる言葉で聞いて、神をほめたたえることで一つになることへと導かれました。そのために、主なる神は、十字架のキリストと聖霊によって私たちを造り替えてくださいました。
今日の教会の課題として、次の世代に福音を宣べ伝える話し言葉の獲得ということがあります。わたしは、自分の子どもたちが話しているのを聞いて、何を話しているのか分からないことがあります。家族でありながら、隔たりを感じてしまいます。世代の違いがあるでしょうし、見ているものが違います。今日、生き方も価値観も多様になり、そのような隔たりがいろいろあるのだと思います。その隔たりを乗り越える言葉、橋を架ける話し言葉を獲得することが、今、必要とされています。
ペンテコステにおいて、ほかの国々の言葉を話す、くすしき御業が行われました。しかし、その本質は、外国語を話す能力ではありません。たとえ言葉が十分に分からなくても思いを一つにすることができるのです。そのために大切なことは、心を開き、へりくだって相手のことを考え、思いを共有することです。ペンテコステに与えられたのは、その開かれた心、へりくだる姿勢であり、相手を愛する思いにほかなりません。パウロが「すべての人に対してすべてのものになりました」(コリント一9:19-23)と語ったように、へりくだって相手の思いを知り、相手の話す言葉をこちらも話し、そうして、神と人に仕えて生きることです。
私たちは、主イエス・キリストによって神の民とされ、神の真理、救いの恵みをゆだねられ、聖霊に導かれて、自分の言葉で福音を宣べ伝える者として遣わされています。受け取った信仰のバトンを次の世代の人びとに渡していく営みに、祈りをもって取り組んで参りましょう。

