2026年3月22日礼拝
マタイによる福音書 21章12~17節

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。」
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。


 主イエスは、復活の一週間前にあたる日曜日にエルサレムに入られました。マタイ福音書によると、ロバの子に乗ってエルサレムに入った主イエスは、そのまま神殿へと向かわれ、神殿から商人たちを追い出す宮清めの御業を行われました。ここには、主イエスが何のためにエルサレムに来られ、十字架につけられたのか、その目的が示されています。

 当時、イスラエルの民のおよそ三分の二はディアスポラとして、世界の各地に散らされていました。そこから、巡礼の旅をしてエルサレムに集まります。神殿では、一つには動物のいけにえをささげることが求められます。そのため、遠くから来る巡礼者のために動物が売られました。もう一つには、「神殿のシェケル」と呼ばれる伝統的な貨幣で献金をささげます。一般に流通しておらず、両替が必要で、そのために両替屋がいたのです。これらは神殿を管理する大祭司が許可し、聖書も認めているものです。ですから、彼らの商売そのものがよくないのではありません。

 ヨハネ福音書が主イエスの言葉を書き留めています。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)。三日で建て直すとは、十字架につけられた主イエスが三日目によみがえること、復活を指しています。神殿とは礼拝する場所です。その神殿を壊し、けれども御自分が三日目に復活することによって、真実の礼拝を建て上げるということです。主イエスは、真実の礼拝の実現のために十字架につけられるのです。

 宮清めは、ですから、主イエスの十字架と復活に基づく新しい礼拝を指し示しています。動物のいけにえと神殿のシェケルをささげる礼拝は、主イエス・キリストというまことの神の小羊がささげられるまでのものなのです。今や神の小羊キリストが来られて、十字架と復活の御業が成し遂げられ、キリストの御業に基づく新しい礼拝が始まります。

 「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」。これは「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)の引用です。イザヤ書のこの箇所には、異邦人も宦官も区別なく神のもとに招かれるとあります。異邦人も宦官も、神に愛されるべき存在として造られたことは変わらないからです。主を愛し、主の契約のもとで共に生きることがすべての人に等しく求められ、神の家はすべての民の祈りの家と呼ばれる。こうして、主イエスがもたらす礼拝の新しさは、すべての民が等しく招かれることです。主イエス・キリストはすべての人を照らす啓示の光として来られました。ですから、礼拝も「すべての民の祈りの家」です。

 14節以下、主イエスは目の見えない人や足の不自由な人たちをおいやしになりました。当然、御言葉を教えて祈りをささげ、神を礼拝することもなさったでしょう。主イエスは御自身を中心とする新しい礼拝を始めておられます。子どもたちも加わり、「ダビデの子にホサナ」と言って、主をほめたたえます。こうして、すべての民の祈りの家としての礼拝が始まりました。ここに先駆けとしての新しい礼拝があります。

 祭司長や律法学者たちは「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ子どもたちに腹を立てました。彼らは自分たちの領域を守ろうとします。礼拝が自分たちだけの安息となっていたのでしょう。大切なことは、礼拝は自分のためだけではなく、むしろ神のために、また隣人のため、すべての民、すべての人びとのためにささげられるということです。共に生きる仲間のために執り成しの祈りをささげ、日本と世界の平和のために共に祈りをささげる。そのような祈りの家として建て上げられることが求められています。そのためにこそ、主イエス・キリストが十字架につけられ、私たちのための贖いとなられました。この十字架に基づく平和の福音に固く立ち、主に感謝して、平和の福音をすべての人びとに宣べ伝えましょう。