2026年4月12日礼拝
マタイによる福音書 9章14~17節
そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」
主イエスがマタイの家で徴税人や罪人と一緒に食事をしておられた、ちょうどそのころ、ヨハネの弟子たちが主イエスのところに来て、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と尋ねました。
主イエスは答えて、一つには、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」とおっしゃいます。「悲しむ」とは自分の罪を悔いて悲しむことで、当時、断食して悲しみを表すことが悔い改めのしるしとされていました。それに対して、このとき花婿である主イエスが一緒にいるのであり、どうして悲しむことができようか、むしろ婚礼の時のように喜びが表されるのではないか、ということです。そして花婿が奪い取られる時、すなわち十字架に際しては嘆き悲しむであろう、とおっしゃいます。事実、十字架に際して弟子たちは嘆き悲みました。そして、そこからさらに時は進み、今や復活の主が共におられます。主イエスは御父の右に座し、聖霊をお遣わしくださいました。今や聖霊にあって十字架と復活の主が共におられます。それゆえ、罪を悔いて嘆く悲しみは罪赦されて復活の命を生きる喜びにのみ込まれてしまいます。キリストがすべての罪を償い、聖霊が私たちを清め、新しくしてくださった。その神の恵みの中で悔い改めるのです。いったいどうして悲しむことができようか。
ですから、悔い改めなくてよいということではありません。信仰者にとって悔い改めが大切であることは変わりません。マタイは、主イエスの弟子とされて、もちろん自分の過去を悲しみ嘆いたでしょう。けれども、主イエスによって神のみもとに立ち帰らされて、マタイは自分の過去を悲しむことを止めました。むしろ食事の席を設けて、主イエスが共にいてくださる感謝と喜びを表し、自分の喜びを自分の仲間たちと分かち合おうとしたのです。悔い改めとは決して悲しむことだけでなく、悲しみが喜びにのみ込まれ、その喜びによって神の恵みを証しすることへと向かいます。ですから、悔い改めの表れとしての喜びなのです。私たちも、けっして自分を悲しむことに留まるのではありません。主共にいます喜びを表して生きる。そこに、私たちの悔い改めに生きる人生があります。
もう一つは、織りたての新しい布で古い服に継ぎを当てたりしない、また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしないという、二つで一つのたとえです。新しいもの、活き活きとしているものは新しい器を必要とします。主イエスによって与えられた信仰は新しい生き方、活き活きとした生き方を生み出すのであり、旧約の古い信仰生活の器に収めることはできず、それを打ち破ってしまう力を持つのです。喜びがあり、活き活きとしている。それを旧約時代の信仰生活と継ぎはぎしてはなりません。
わたしが心がけていることの一つに、深刻なことこそ明るく考えるということがあります。深刻なことを深刻に考えると気持ちが暗くなり、落ち込んでしまいます。もちろん、人間的には深刻なことが多いのです。けれども、主がよみがえっておられ、勝利しておられます。人間の力を超えた神の力があるのです。その主に信頼して、神の御業を待ち望む。主イエスはおっしゃいました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。この神の恵みの中で考える。そうすると、明るく考えることができます。主イエス・キリストに期待し、神の御業を待ち望む明るさです。そして、ヨハネの弟子たちが主イエスの弟子たちの振る舞いを疑問に思ったように、周りの方々から、どうして気持ちを落とさず明るく生きることができるのかと疑問に思われるならば、それが何よりの証しとなり伝道となる、そういうものでしょう。私たちは主共にいます幸いに生かされています。その喜びに基づいて、厳しい人生を明るい態度で歩み抜いて参りましょう。

