2025年10月26日礼拝
マタイによる福音書 7章1~6節
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
「ブーメラン」という言葉があります。投げると戻ってくる道具ですが、ある政治家が問題のある別の政治家を批判すると、お前にも似たような問題があるではないかと言われて炎上してしまう、その状況が「ブーメラン」と呼ばれます。裁く者が裁かれる。そのような有り様の中で、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と聞くと、確かにその通りだ、自分が裁かれないために、安易に人を裁くことは慎まなければならないと思うでしょう。そう考えて戒めとすることのできる御言葉です。しかし、それだけで終わってはなりません。
私たちは、人と比較して自分はまだましだと思いがちです。まだましだと思うから、相手を裁いてしまいます。しかし、主イエスは「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」とおっしゃって、むしろ兄弟はおが屑で、あなた自身の中に丸太があると指摘します。そして、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、……兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われます。しかし、自分の目の中の丸太に気づきもしない者が、どうして丸太を取り除くことができるでしょうか。まして、それではだれも人の目からおが屑を取り除こうなどとは言えません。すなわち、私たちには本来、人を裁くことなどできないということです。主イエスは、私たち人間には、本来、人を裁く力はないとおっしゃるのです。
しかし、「裁くな」とは、裁くことが必要ないということではありません。裁くとは秩序を与えること、ルールを定めることであり、秩序がないと世界は混乱します。私たちの生活も成り立ちません。裁くことは必要です。その裁く権威と力は私たち人間のものではないということです。
「神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない」。犬や豚とありますが、ここでは足で踏みにじり、かみついてくる態度が問題とされています。神聖なもの、真珠のような尊いものとは裁く権威と力です。私たちが自分で人を裁くとき、それは裁く権威と力を自分のものであるかのようにもてあそぶことになってしまう。本当の裁き主である神をしりぞけ、自分の正義を振りかざして人を裁いてしまう。それは裁く権威と力をもてあそび、神にかみついているに等しい。この犬と豚は、正義を自分のものとして人を裁いてしまう、私たち自身です。そうであってはならない。裁く権威と力、正義は神にこそあるからです。
ですから、この御言葉は、水平的な人間関係の中だけで理解すると読み間違うことになるでしょう。神との垂直的な関係を考えるところでこそ正しく理解することができます。私たちにはみな罪があるのであって、私たち人間にはだれ一人として人を裁くことができる者はいません。ただ主イエス・キリストお一人が人を裁くことができるお方です。そして、主イエスは姦淫の罪を犯した女性の傍らに立ち、罪の赦しを告げました(ヨハネ8章)。女性の罪の責任を背負い、身代わりとして十字架につけられました。傍観者としてではなく、罪を背負う仕方で傍らに立たれました。神の裁きは、そのようにして人に命を与え、人を生かすものなのです。
それゆえ、私たちも、傍観者になって批判するのではなく、共に背負う位置に立つことが大切です。野球で言うと、審判ではなく、キャッチャーの位置に立つのです。ピッチャーが投げたボールをストライク、ボールと判定するだけならばキャッチャーではありません。悪い癖が出ているから直せなどのアドバイスをして励まし、一緒に戦って、共に勝利を目指す。そういう仲間としての立ち位置です。互いに励まし合い、共に祈って支え合う。主イエスは、そのような人間関係を築き上げていく、そして、そのような社会を建て上げていくことを私たちに求めておられます。

