2025年8月3日礼拝
マタイによる福音書 6章1~6節
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(1~4節)
善行、善い行いが取り上げられています。当時、具体的には施しと祈りと断食の三つが善い行いで、信仰生活の基本とされていました。「人の前で善行をしないように注意しなさい」とおっしゃって、主イエスは、偽善に陥ることを戒め、心からの善い行いを求めておられます。
「偽善者」とは、もともとは俳優、役者を意味する言葉だそうです。役者が役を演じるように、人に見せるために善行を行う。それが、ここで指摘される偽善です。施しについて、「ラッパを吹き鳴らしてはならない」とあります。当時、神殿で献金をささげるとき、献金箱の投げ込み口の形がラッパの形をしていて、コインを投げ込むと金属音が響いて、ラッパが鳴ると言われたようです。たくさん投げ込むとラッパが鳴り響いて、たくさん献げたことが分かる。それで、人に見られるように自己アピールすることをラッパを吹き鳴らすと言ったようです。「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」。確かに人から立派な行いだと称賛されることがあるでしょう。しかし、神が喜んでおられるかどうかはまた別のことです。人からの評価を求めて、それは神なしの世界で生きることに等しいのであり、もはや神からの報いを期待することはできません。
主イエスは、「隠れたことを見ておられる父が、報いてくださる」とおっしゃいます。神が見ておられる。それだけでよいということです。神が見ておられ、喜んでくださる。それが自分への報いとなる。災害などに際して、被害にあった方々の助けになればと献金や寄附をします。道を歩く人が倒れると駆け寄って助け、必要であれば救急車を呼びます。周りの人が見ているから、人の称賛を得たいからということではなく、その人を助けたい、ただその思いで行動します。そして、その報いは、主なる神が喜んでおられる、それで十分である、そういう種類の報いです。
そのような善い行いは、人として当たり前のことだと言えるでしょう。しかし、実際のところ、私たちは戸惑い、躊躇して、なかなか実行できません。「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃる主イエスの言葉に押し出されて、ようやく手を差し出すことができる、そういうものでもあるのです。ですから、善い行いは信仰の実りの一つであり、神への感謝の業だと言えるでしょう。私たちの憐れみの業は、その人に対するものというだけではなく、主なる神に対するものにほかなりません。それゆえ、神がご存じである、神が喜んでおられる、それで十分である。
私たちはしばしば人の目を気にしてしまいます。自分の行為が正当に評価されず、不満を抱くこともあります。主イエスは、そのようなことから自由な世界があるとおっしゃいます。隠れたことを見ておられる神の御前に生きる世界です。人の目から解き放たれて、ありのままの自分でいられる、それが神の御前に生きるということです。人は知らずとも、神はご存じで、もっともよい報いを与えてくださる。神におゆだねすることができるのです。そして、主なる神は、人に自分を誇ろうとする私たちの愚かさをもご存じです。神の御前にさえ自分を誇ろうとしてしまう、罪深い私たちなのです。けれども、主イエス・キリストが、そのような罪と愚かさをも背負って、十字架に掛けられてくださいました。そのキリストの十字架のゆえに、私たちは罪赦されて神の御前に立つことができます。ですから、神の御前にありのままでいてよい、安んじてよいのです。
偽善や義務感からではなく、心から主をほめたたえて、感謝し、神を喜ぶ信仰生活を重ねる者でありたいと願います。そうであってこそ、私たちの信仰生活がキリストの香りを放ち、神の愛とキリストの恵みを証しして、周りの方々に信仰の喜びを伝えるものとされます。私たちの内に働く聖霊が、そのことを確かに成し遂げてくださるのです。

