2025年12月21日礼拝
ルカによる福音書 2章8~20節
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(8~14節)
世界で最初に救い主の御降誕の知らせが届けられたのは、野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちでした。彼らは街の喧騒から遠く、住民登録も求められず、当時のローマ帝国の枠組みからこぼれ落ちていた人びとです。そのような彼らのもとに、主の天使が現れて、主の栄光が彼らを明るく照らし出しました。主の栄光、神のまなざしは、彼らのような存在に注がれ、彼らを明るく照らし出すのです。
御使いは言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。「民全体に」とは「すべての民に」ということです。「告げる」は「福音として告げる」という言葉で、皇帝アウグストゥスの誕生が「福音」と呼ばれました。「救い主」もローマ皇帝に対して用いられていた言葉です。これらを用いることで、ルカ福音書は、皇帝が真実の救い主なのではなく、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子こそがまことの救い主なのだと明らかにしています。それも、民族や国家を超えて、すべての人びとに与えられる救い主です。だから大きな喜びなのです。
主の天使に天の大軍が加わり、神を賛美します。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。ローマ帝国において、平和とは皇帝が造り出すものでした。その平和は剣による平和、敵を征服することによって勝ち取られる平和です。そこには、抑圧され、虐げられている人びとがいます。それに対して、天の大軍が歌う「地には平和」は違います。天使は告げました。「……飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がしるしとされる平和なのです。
生けるまことの神は、独り子を飼い葉桶に寝かされる姿でお遣わしくださいました。それは、人を愛し、人を信じる、愛と信頼のしるしです。ですから、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がしるしとされる平和も、愛すること信じることによってもたらされる平和です。敵意や憎しみを取り除き、虐げられた者を解き放ち、正義と公平を打ち立てる平和です。神と人の前に謙そんに、また寛容にされ、へりくだることによる平和です。そのような平和だからこそ、羊飼いたちの周りを明るく照らし出す平和なのです。そこに、羊飼いたちに与えられた大きな喜びがあります。
振り返るならば、私たちは、敵を愛して信頼するよりも、敵は敵だと言ってしりぞけて、排除してしまう者にほかなりません。愛と信頼に生きるよりも、争いと対立に生きてしまいがちなのです。そのほうが自分にとって楽だからでしょう。愛と信頼に生きるとは、自分を差し出すことであり、困難と労苦を引き受けることを迫られるものなのです。そして、主なる神は、私たちの生き方が変わるためにこそ、ご自身の尊い独り子を遣わしてくださり、その遣わされた主イエスは、やがて十字架にかけられることによって、真実の平和に生きる道を切り開いてくださいました。
羊飼いたちはベツレヘムに向かい、乳飲み子を探し当てました。おそらく乳飲み子である主イエスの前にひれ伏して礼拝したでしょう。そうして羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人びとに知らせました。すなわち、与えられた喜びを自分たちだけのものにするのではなく、分かち合うことに生きたのです。そうして、愛と信頼に生きる生き方を始めていった。それが「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」ということです。私たちも、この乳飲み子に出会って、新しい人生を歩むことへと招かれています。私たちも、争いと対立ではなく、愛と信頼に生きるのであり、喜びを分かち合って生きるのです。そこに、神を畏れ、神をあがめて賛美する、私たちの新しい生き方があります。

