2025年12月14日礼拝
ルカによる福音書 2章1~7節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。


 マリアとその夫ヨセフは、住民登録のため、ダビデの町ベツレヘムに向かいました。彼らは寝泊まりする部屋を確保できず、小さな家畜小屋で体を休めたものと思われます。そのため、生まれた幼子は家畜のえさを入れる飼い葉桶に寝かされます。羊飼いたちに現れた天使が、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と告げます(12節)。飼い葉桶に寝かされた乳飲み子は、いったい何のしるしなのでしょうか。

 一つには、神のへりくだりです。皇帝アウグストゥスは、広大なローマ帝国を治めるために、秩序と制度を建て上げることに力を尽くしました。住民登録は、そのための制度の一つです。その一方で、マリアとヨセフは名もなく力もない、小さな存在で、住民登録を拒むことなどできません。マリアが身重で、間もなく生まれそうなのに、二人は旅をせざるを得ません。この二人の小ささは、マリアの胎に宿る男の子の小ささでもあります。実に、神はへりくだって、この小ささを引き受けてくださいました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。

 二つには、信頼すること、愛することです。乳飲み子は、小さく無力で、か弱い存在です。不謹慎な言い方ですが、おとなが手でひとひねりするならば、たちまち命を失うのであり、それに抵抗することはできません。独り子を人としてお遣わしになるに際して、神はどうしてこの方法をとられたのだろうか。力強い勇士の姿で遣わすこともできたのではないか。しかし、神はそうなさいませんでした。それは、神が人間を信頼し、愛しているからです。私たち一人ひとりを愛してくださるからです。主なる神は、「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し」ているとおっしゃいます(イザヤ43:4)。その愛と信頼は、たとえ私たちが罪の内に堕落しているとしても変わりません。たとえ私たちが神に敵意を持ち、神をしりぞけるとしても、神は愛と信頼をもって私たちに応えてくださいます。それゆえ、独り子を人の手にゆだねられました。たとえ最後に、人がその子を十字架につけることになったとしても、です。

 クリスマスに、神は大きな冒険をされました。独り子を人の手にゆだねるという冒険です。信じること愛することには危険がともないます。信じること愛することは、自分を与えないではできないことなのです。人付き合いが難しい時代だと言われます。なぜ難しいのでしょうか。傷つけられることを恐れるからかもしれません。逆に、傷つけることを恐れるからかもしれません。人と交わりを持たないならば、傷つけられることなく、傷つけることもないでしょう。けれども、そこに本当に人間としての生き方があるのでしょうか。私たちを交わりの中で生きる存在として造ってくださった神は、ご自身、信じること愛することの危険を引き受けられました。そうしてお生まれになったお方が飼い葉桶の救い主です。幼子の主イエスは、信頼すること愛することの危険を引き受けて、飼い葉桶に横たえられています。「これがあなたがたへのしるしである」。

 この飼い葉桶の救い主が与えられて、私たちにも、信頼すること愛することが求められています。人は信頼するに価するのです、愛するに価するのです。自らを差し出して、信じること愛することに身を乗り出す、そこに人生の真実がある。聖書はそう言います。神が信じること愛することの冒険に乗り出しておられる。あなたがたも信じること愛すること、この冒険の旅に出なさい。聖書は、そう私たちに呼びかけています。