2026年8月2日礼拝
出エジプト記 2章11節~22節
モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。
さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちがそこへ来て水をくみ、水ぶねを満たし、父の羊の群れに飲ませようとしたところへ、羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払った。モーセは立ち上がって娘たちを救い、羊の群れに水を飲ませてやった。娘たちが父レウエルのところに帰ると、父は、「どうして今日はこんなに早く帰れたのか」と尋ねた。彼女たちは言った。「一人のエジプト人が羊飼いの男たちからわたしたちを助け出し、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました。」父は娘たちに言った。「どこにおられるのだ、その方は。どうして、お前たちはその方をほうっておくのだ。呼びに行って、食事を差し上げなさい。」モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。
「モーセが成人したころ」とは40歳の頃だと思われます(使徒7:23)。自分がヘブライ人であることを自覚していたモーセは、同胞のヘブライ人の強制労働の実態を知るために王宮から出て行きます。その中で、エジプト人がヘブライ人を打っている出来事に出会いました。このエジプト人はヘブライ人の労働を監督する立場にあったのでしょうから、打つべき理由が何かあったのかもしれません。しかし、モーセはその確認をすることなく、エジプト人を打ち殺します。モーセとしてはヘブライ人が殺されてしまうと思ったのでしょう。けれども、これは正当な行為ではありません。そのため、死体を砂に埋めて、人に知られないように隠します。
翌日、ヘブライ人同士がけんかをしていました。苛酷な環境は人間的な温かさを失わせます。ヘブライ人同士の間も殺伐としていたのです。モーセは仲裁役を買って出ますが、彼らは「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」と言い、モーセを拒みます。彼らにとって、モーセはあくまで宮廷育ちで、自分たちの仲間ではありません。暴力的なエジプト人に代わって、別の暴力的な人物が登場したというだけでした。自分の行為がいずれファラオにまで知られると思ったモーセは、エジプトから逃げ出すほかありません。モーセはミディアン地方へと逃亡します。
ミディアン地方はアカバ湾の東に広がる地域です。エジプトからかなり離れていますが、モーセはミディアンまで来てやっとファラオから逃れることができたと思ったのでしょう。井戸の近くで休んでいたモーセは、羊飼いの男たちを追い払い、水ぶねを横取りされて困っていた娘たちを助けます。モーセが正義感の強い人物だったことが分かるエピソードです。これがきっかけとなり、モーセはレウエルの家に導かれます。主なる神は、このレウエルを用いてモーセの生活を支え、モーセを導きます。モーセがレウエルのもとにとどまることを決意すると、レウエルは娘ツィポラを与えて結婚させ、羊の群れをモーセに委ねます。このレウエルのもとで、モーセは羊の世話の仕方をはじめ、荒れ野で生きていくための知恵を学び、身につけました。これがなければ、エジプトで奴隷だったイスラエルの民が、出エジプト後に荒れ野で生活することはできなかったでしょう。
モーセに男の子が与えられました。ゲルショムという名前には寄留者という意味があります。モーセは同胞の民ヘブライ人から拒絶され、ミディアンの地で寄留者となりました。彼は自分が寄る辺ない者であると感じ、挫折と失意に打ちのめされていたでしょう。それは、ただ同胞が拒んだというのではない、主なる神がモーセを拒み、打たれたのです。すなわち、自分の憤りに任せてエジプト人を打つモーセではダメなのです。彼は、自分こそヘブライ人を助けることができると思い、同胞のところに出て行き、自分の思いで行動して殺し、自分の思いで調停役を買って出て拒絶され、振り返るならば、そこにあるのはただ人間の思いに過ぎないものでした。神のご計画、神の御心を追い求めたのではありませんでした。主なる神は、神の御力に依り頼むことへとモーセを造り変えようとしておられます。そして、このミディアンの荒れ野で経験したことすべてが、出エジプトの旅路の中で、やがて豊かに用いられるのです。
モーセは、ミディアンの地で家族を得て、慰められたでしょう。主は、モーセに逃れの道、憩いの場所を備えておられました。また、「主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(コリント一15:58)とあります。私たちの人生には、回り道や行き止まりがあり、無駄に終わったと思われることもあるのです。けれども、真実には神の御前に無駄なことは一つもありません。主なる神に信頼して、主の御力に依り頼んで歩んで参りましょう。

