2026年1月4日礼拝
マタイによる福音書 8章1~4節
イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
マタイ福音書5~7章が「山上の説教」と呼ばれる主イエスの説教集であるのに対して、8~9章は主イエスのなさった御業がまとめて書き記される御業集、奇跡物語集です。主イエスは、福音を宣べ伝えて教えるだけでなく、人びとに仕えて歩まれました。仕えることによって私たちを救いへと導く、これが私たちに与えられている救い主なのです。
「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り」ました。「すると」は直訳すると「すると見よ」で、いるはずのない人がそこにいたという驚きが込められています。当時、重い皮膚病だと判断されると社会的隔離が強いられ、群衆の中に入ることは許されませんでした。ところが、どこでどう紛れ込んだのか、群衆に隠れるようにして重い皮膚病の人がやって来たのです。彼は主イエスにひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言います。彼がどのようにして主イエスを知ったのかは分かりません。ただ、ひれ伏し拝んだこと、「主よ」と呼ぶことなどから、主イエスを救い主として信じていたことは明らかです。彼はまた、自分が本来、主イエスの前に立つことのできない者であることを知っています。神の御前にけがれているとされているのであり、とうてい「わたしを清くしてください」と願い出ることはできない、そう思い、かろうじて「御心ならば」と言って、自分の願いを言い表します。ここには主の憐れみによりすがる姿があります。
主イエスは、その願いを決して拒まれません。伝染することが恐れられる病でしたが、主イエスは躊躇なく手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」とおっしゃいます。この「よろしい」は、「御心ならば」という言葉を肯定文にしたもので、「御心だ」と翻訳できます。「御心ならば」に対して「御心だ、清くなれ」なのです。そうして、その言葉のとおり、たちまち清くされました。主イエスがおっしゃることは必ずそのとおりになる。主イエスの言葉の権威と力が示されています。
「だれにも話さないように気をつけなさい」とは、寄り道をしないようにということです。この病気は、病気そのもの以上に社会的政策として隔離されていたものです。祭司に「清い」と判定されることなく人前に出ることは、混乱を招きかねません。喜んで、清くされたと言って回りたいかもしれないが、祭司の判断を得て、定められている供え物も献げて、社会生活に復帰する手続きを急ぎなさい、ということです。ですから、主イエスが願っておられることは、社会生活に復帰することです。病がいやされることはもちろん、社会的隔離が解かれて、社会の一員としての生活を回復すること、通常の生活に戻ることにこそ神の御心がある。そのために、主イエスはご自身の力ある御業を行われるのです。
主イエスは清くされることが御心だとおっしゃいます。神の御心は、だれもが清い者とされて生きることであり、社会的隔離や人間疎外などのない社会を造り上げることにあります。そして、そのような御言葉が、マタイ福音書の主イエスの御業集、奇跡物語集の最初に置かれていることに大きな意義があります。社会的隔離を命じる旧約の律法も、よく読めば社会復帰の道を示しています。排除の道ではなく、回復の道を定めるものなのです。それなのに、だれかに犠牲を強いたままで仕方ないとしてしまう、そこに私たちの罪があると言えるでしょう。そのような愚かな私たちを清めて造り変えるためにこそ、救い主が来られたのです。
今日も、人間疎外や社会的分断が大きな課題です。その解決に力を尽くすなどとは言えない、力ない私たちですが、心に留めて祈りたいと思います。信仰者は、その祈りを失ってはなりません。神の御心を教えられた者として、共に生きる社会を建て上げることが求められているのです。

