2026年1月11日礼拝
マタイによる福音書 8章5~13節
さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
一人の百人隊長が主イエスを訪ねてきました。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」。中風とは、体に麻痺があって、手足が不自由な症状を指します。ルカ福音書には「病気で死にかかっていた」とあり、厳しい状態だったようです。「わたしの僕」とは兵士としての部下ではなく、百人隊長の身の周りの世話をする、個人的な奴隷としての僕だと思われます。百人隊長は、まだ年若い少年のことを心配して、主イエスに助けを求めたのでしょう。「ちょうどそのとき、しもべの病気はいやされた」(13節)とあり、主イエスはこの僕をいやされました。けれども、マタイ福音書が語る中心は、言葉の権威についての対話であり、百人隊長の主イエスへの信仰です。主イエス・キリストが「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(10節)とおっしゃった、百人隊長の信仰の姿です。
一つには、彼は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と言います。ここには、当時のユダヤ人が異邦人の家に入るとけがれると考えて、異邦人の家に入ることを避けていた、そのことへの理解と配慮があります。そして同時に、彼は神の御前に自らの低さを言い表しています。主イエスをまことの神として畏れ敬う姿勢があるのです。彼は「主よ」と呼びかけます。主イエスに対して、あなたこそまことの神であると告白して、主イエスの権威を認めます。
もう一つには、言葉の権威と力を知る信仰です。彼は自らの経験をとおして、言葉の権威と力を知るものとされていました。軍隊においては、上に立つ者に権威と力があり、その言葉は必ず実現するのです。そして、彼は「主よ」と呼びかけて、主イエスに上に立つ者としての権威を認めます。そして、その主権、権威と力は自分の僕にも及びますし、病にも及ぶのです。こうして、生と死を貫く全領域に及ぶ主イエス・キリストの権威を認め、その言葉に信頼すること、これが百人隊長の信仰の特長であり、これこそがイエス・キリストを主とするということです。
ですから、百人隊長が具体的に願い出たのは、「ただ、一言おっしゃってください」ということ、それだけでした。「お言葉をください」と申し出て、その言葉が必ず成るという信仰を言い表したのです。主イエスは、この百人隊長の信仰を喜ばれ、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」とおっしゃって、僕をおいやしくださいました。
その主イエスの言葉が、私たちに、聖書の言葉として与えられています。主なる神は、今、御言葉と聖霊において私たちに働かれます。キリストの霊である聖霊が私たちの内に住み、御言葉をとおして私たちを造り替え、私たちを新しい命に生きる者としてくださいます。今も、神の御言葉には、私たちを新しい命に生かす、確かな権威と力があるのです。
この出来事は、主イエスが喜ばれる信仰の姿が一人の異邦人に与えられたことを語ります。主なる神は、このような大きな信仰を、神を知らず聖書も知らなかった者にお与えくださるのです。ここに、主なる神の恵みと憐れみがあります。そうです。この恵みと憐れみのゆえに、私たち一人ひとりも、御言葉の権威に服する者とされるのです。主なる神は、聖霊を私たちに注いで、御言葉の権威を知って従う者としてくださいます。そして、御言葉の権威を知る信仰は、私たち自身の言葉に対する態度をも新しくします。言葉の大切さを知って、自分の思いをていねいに言葉にするのであり、自分の言葉を裏切らない態度と行いを心がけます。そうして私たちの言葉も真実とされるのです。言葉に信頼があってこそ、私たちは互いに語り合い、理解し合うことができます。神の御言葉によって整えられて、私たち自身、信頼される言葉を語る者でありたいのです。

