2026年4月26日礼拝
マタイによる福音書 9章27~34節
イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
主イエスのところに二人の盲人がやって来ました。二人は「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながら、家までついてきました。すなわち主イエスは、叫ぶ彼らをそのままにして家に向かい、家に入ると二人も入って来て、そこで初めて「わたしにできると信じるのか」とおっしゃいました。最初は二人を拒むかのような振る舞いだったのです。その理由は「ダビデの子よ」という言葉です。「ダビデの子」には救い主メシアだけでなく、かつてのイスラエル王国の王ダビデの再来という意味があり、地上のイスラエル王国を再建する政治的指導者を指して用いられました。主イエスは真実に救い主ですが、罪人を罪から贖い出すために来られました。主イエスは、多くの人びとが目撃する中で「ダビデの子よ」という呼びかけに応えることを避けたものと思われます。
それだけに、盲人二人がたいへん熱心で、へこたれることなく主イエスに依り頼んだことが際立っています。主イエスは、本心では、この二人が忍耐強くご自身についてくることを喜んでおられただろう。そして、家の中で二人と向かい合い、「わたしにできると信じるのか」との問いに「はい、主よ」とまっすぐに答える彼らのことを喜び、二人の目に触れておいやしになったのであろう。そんなふうに思わされます。
続いて、口の利けない人のいやしの出来事が取り上げられています。目が見えない人が見えるようになること、そして口の利けない人がものを言い始めること、これらは主なる神が遣わすまことの救い主のしるしです(イザヤ35:5,6,42:7など)。「群衆は驚嘆し」は、口の利けない人のいやしだけでなく、盲人のいやしも含めて、「群衆は驚嘆し」と言われます。その一方で、ファリサイ派の人びとは言います。「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」。主イエスの力そのものを否定することはできない。けれども、主イエスがまことの救い主だとは認めたくありません。それで、悪霊が聞き従うのはあの男が悪霊の頭だからだと言います。彼らは主イエスが救い主であるとは認めようとしないのです。
彼らは自分の思いで選り好みをしているのだと言えるでしょう。そして、そこに人間の自我の問題があり、聖書の語る罪がある。私たちも同じです。私たちも、自分の求める救いや願いがあって、病はいやしてほしい、人間関係も改善できればと願う、しかし自分が大切にしているこの点は譲れない、そのような自我が出て、私たちはしばしば頑なです。しかし、自分が考え求める範囲でだけ神を考え救いを求めるならば、それは小さなものになるのではないでしょうか。むしろ、神というお方は自分をはるかに超えていて、理解のできないところがあるが、神がお示しくださる救いを認め、神の真理を謙そんに受け入れる、そういうところでこそ、自らを正し、造り変えられることが起こるのではないでしょうか。
この出来事は、神を信じるということ、宗教や信仰というものの持つ、根本的な性質を明らかにしています。頑なさを捨てて自らを低くすること、謙そんであることが求められるのです。そして、そこにこそ、私たちがいやされ、目を開かれ口を開かれ、健やかにされて歩む道があります。自分の頑なさから解き放たれてこそ、自分の眼鏡でものを見るのではなく、開かれた目で、人を見、自分自身をも見ることができます。そうして、神に愛され健やかにされて生きる自分を見て、感謝と喜びの中で生きるものとされるのです。主イエス・キリストこそが、そのことを成し遂げてくださいます。このとき、二人の盲人は、まさに謙そんに主イエスに依り頼み、主イエスによっていやされ、目が開かれ、神をほめたたえて生きるものとされました。主イエスは、御言葉と聖霊によって、私たちにもその信仰を与えて、神の御前に健やかに生きる者としてくださいます。

