2026年5月3日礼拝
マタイによる福音書 9章35~38節

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」


 主イエスは、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされ」ました。これは、5~9章に記された主イエスのお働きを総括する言葉です。ここで大切なことは、主イエスが「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」ことです。

 聖書は、まことの神と私たちの関係を羊飼いと羊の群れになぞらえます。神の民は神をまことの羊飼いとする羊の群れです。けれども、このとき、「飼い主のいない羊のように弱り果て」と言われます。それは、エゼキエル書34章に示されるように、牧者であるイスラエルの指導者たちが群れを養わず、自分自身を養っていたからです。そのため、主なる神は自ら羊を探すとおっしゃって、救い主を遣わすことを約束されます(エゼキエル34:23)。その救い主が、真実に羊飼いとしてご自身の民を養い、導かれます。主イエスは、この旧約の御言葉が約束する救い主として来られました。深く憐れむとは、「断腸の思い」という言葉が示すように、はらわたが裂かれるような痛みを感じて憐れに思い、同情を寄せることです。自分の肉体に痛みを感じるような思いで寄り添うことです。

 旧約時代も主イエスの時代も、人間の牧者は自分のことに一所懸命で、人びとの苦しみに心を寄せることが少なかったのだと思わされます。それは今の時代でも変わらないでしょう。わたし自身もどれほど人の痛みや苦しみに心を寄せることができているか、まことに不十分なものだと懺悔せざるを得ません。しかし、憐れみをもって寄り添われた人びとも、主イエスに寄り添われてはじめて自分が憐れみを必要としていることに気づいた、そんなことだったのではないでしょうか。主イエスは霊的な飢え渇き、魂の配慮のために寄り添ってくださいます。その点で、私たちは、霊的な飢え渇き、魂の配慮の必要に鈍いのです。それで主イエスは、「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』というのと、どちらが易しいか」と問いかけられました(マタイ9:5)。真実には、赦すことが人間にとってどれほど困難なことか、私たちははたして気づいているでしょうか。赦すと思って決断しても、赦せない自分がいる。それは、人を赦せないだけでなく、自分の過ちを自分でも赦すことができず、いつまでも自分を責めてしまう、そういうことがあるほどなのです。主イエスは、そのような霊的な痛み、苦しみに寄り添ってくださいます。そして、寄り添うだけではなく、主イエスは十字架によって罪と死に勝利して、復活の命を勝ち取られたお方です。その主に結ばれて、私たちも新しくされて生きることができます。そこに私たちの真実の希望があるのです。

 「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。「収穫の主」とあり、収穫は主ご自身の御業です。主イエスご自身が人びとを深く憐れみ、ご自分のもとへと集めてくださいます。そのところで、私たちは主イエスに仕えて共に働きます。働き手を送ってくださるように祈り、その祈りにおいて、私たち一人ひとりが用いられます。収穫の主に仕えることは、魂の配慮の必要を知っている者にしかできません。私たち自身、まことの羊飼いを追い求め、主イエスの御声に聞いて歩みます。その信仰の歩みの中で、まだ主イエスを知らない方が主イエスに救いを見いだし、まことの羊飼いを知ることができるように祈るのであり、主イエスの御前に招くのです。

 主イエスは、まことの羊飼いとして来られ、十字架につけられて、罪の赦しと永遠の命を勝ち取られました。ここに、主なる神が与えてくださった、すべての人のまことの羊飼いがおられます。このお方の御声に耳を傾けて生きることへと互いに招いて、共に歩んで参りましょう。