2026年6月14日礼拝
マタイによる福音書 10章16~25節

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。(16~20節)


 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」。信仰者とされて、この世に遣わされて生きるとは、狼の群れの中で何の力もない羊として生きるに等しいことなのです。それで、地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれることが起こると言われます。そのとき、羊であることをやめよ、武器を手に取って抵抗せよ、と言うのではありません。私たち自身が狼のようになって抵抗しなければならない、というのではないのです。主イエスはこうおっしゃいます。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。

 蛇は機を見るにとても敏感で、人が近づくとすぐに気づいて逃げて行きます。口から出す長い舌で周りの状況を察知し、地を這いながら素早く行動する。ここでは、その機を見るにさとい姿が賢いと言われます。「蛇のように賢く」とは、今何をすべきか、機会を敏感に悟って対処することです。危険から逃れて、福音を宣べ伝え続けるためにです。羊であるキリスト者は力によって戦うことはしませんが、何もしないのではありません。逃げるべき時には逃げ、機会を逃すことなく宣べ伝えます。

 「鳩のように素直になりなさい」。鳩は犠牲のいけにえとしてささげられる動物の一つです。鳩は小さく弱い生き物でありながらも、神にささげられる、純粋でけがれなきものなのです。鳩のような素直さとは、主なる神への純粋さであり、まっすぐで一途なことだと言えるでしょう。狼の群れの中に遣わされて、自分たちも狼のようになってしまうのではありません。主なる神へのまっすぐな心を保ち、純粋であり続けます。

 使徒言行録によると、使徒パウロは、この教えに忠実に従っていたように思われます。パウロはローマの市民権を持つ者として高官に訴え出て助けられることがありました。ファリサイ派の立場を用いてユダヤ人に証しをすることもありました。蛇のように賢い立ち回りを見せたと言えるでしょう。政治的に取り入ることも賄賂を贈ることもなく、その点では鳩のように素直に主イエスに信頼し、逃げるときには逃げて、逃げた先でまた福音を宣べ伝えました。何度も捕らえられて法廷で証言しましたが、そこでは自分が出会った復活のキリストと、十字架と復活に示された神の真理を率直に語りました。それが聖霊によって豊かに用いられたのです。

 主イエスは「弟子は師にまさるものではなく、しもべは主人にまさるものではない」とおっしゃいます。一般的には、弟子は師匠を越えようとして精進を重ねるものでしょう。けれども、主イエスと私たちの関係はそうではありません。私たちは主イエスに依存しているのであり、キリストの十字架と復活がないならば、私たち自身には何の希望もありません。私たちが終わりまで忍耐できるのも、私たち自身の力ではなく、主イエスが私たちを捕らえてくださっているからであり、聖霊が私たちの内に住んでくださっているからです。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。「最後まで耐え忍ぶなら救われる」ではありません。これは最後まで耐え忍んで救われるようにという、主イエスの励ましの言葉です。そして、主イエスご自身がそのために力を尽くしてくださいます。今や聖霊を遣わして私たちの内に住み、私たちを絶えず力づけてくださるのです。

 「実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」とあるとおり、父の霊が私たちの内におられます。それは御子の霊、主イエス・キリストの霊でもあり、聖霊です。遣わされたところで、私たちは決して一人ではありません。主が共におられ、聖霊が何を語るべきかを教え、聖霊が信仰に固く立つことへと導いて、私たちを最後まで耐え忍んで救われる者としてくださいます。主の御言葉に信頼して、私たち自身、忍耐強く福音を告げ知らせて参りましょう。