2026年6月21日礼拝
マタイによる福音書 10章26~33節
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(26~31節)
「人々を恐れてはならない」。それは一つには、主イエスが救い主であるという真理、福音の真理は、神ご自身が明らかにしておられることだからです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」は、真理の性質を明らかにしています。真理は隠すことができず、たとえ隠されていても、真理であるがゆえにいずれ明らかにされます。福音の真理は、まず「暗闇であなたがたに言う」とおっしゃるような限定された仕方で教えられました。けれども、復活された主イエスは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)と命じられたのであり、ペンテコステを経て、今や福音の真理を屋根の上で言い広める時代が来ています。ですから、人びとを恐れることなく福音の真理を言い表します。
「人々を恐れてはならない」。二つには、これは人間を恐れてはならないということで、人間には体を殺すことはできても魂を殺すことはできないからです。真理が告げ知らされると、それに伴い、隠しておきたいことが暴かれることが起こります。それは、都合の悪いことですから、信仰者を捕らえて退けようとすることが起こります。けれども、人間には魂と呼ばれる領域があるのであり、肉体の死が人間としての死を意味するのではありません。また、肉体は捕らえられても、魂という決して捕らえられることのない領域があるのであり、人間はその魂によってこそ生きる存在です。人間は、肉体を捕らえることはできても、魂を捕らえることはできない。魂を捕らえることができるのは、ただ主なる神のみ、命の主であるお方のみです。主なる神こそが、私たちのその魂を支えて、私たちに命を与えてくださいます。ですから、人間を恐れることはない。
「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。主なる神こそ、真実に、私たちの魂も体もご存じのお方です。生きるにも死ぬにも、私たちの生死はこのお方にかかっている。そのところで、主イエスは、憐れみ深く、慈しみに富む神の姿を明らかにしておられます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか」。「アサリオン」は、当時用いられていた最小単位のコインです。二羽ひとまとめで一アサリオンとは、一羽では値が付けられないということです。そのような小さな一羽さえ、天の父のお許しがなければ地に落ちることはない。それに対して、あなたがたは、髪の毛一本残らず数えられるほど、天の父によって大切にされ、尊ばれている。だから、むしろ主なる神を恐れなさい。ここで「恐れなさい」と言って続くのは、神の憐れみです。私たちは、滅ぼされることへの恐怖のゆえに神を恐れるのではありません。神の愛と憐れみのゆえに私たちも神を愛して恐れます。決して殺されるから、滅ぼされるから恐れるというのではない。私たちへの神の愛と憐れみのゆえに、神に感謝し、神を愛して、生けるまことの神を畏れ敬います。
神を賛美することを知らない者であった私たちを、神は御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、死から命へと移し替えてくださいました。罪の赦しと永遠の命の恵みを与え、愛と憐れみのあふれる御顔を私たちに向けてくださいます。私たちは、その神の愛と憐れみ、恵みと慈しみに感謝して、主イエス・キリストこそまことの主、まことの救い主であると告白し、主イエスを仲間であると言い表します。そして主イエスも、天の父の前で、私たちのことをわたしの仲間であると言い表してくださいます。私たちはキリストの真白き衣を着せられて、神の御前に立つ者とされるのです。こうして、人間を恐れてしまう私たちの恐れを主なる神ご自身が取り除いてくださいます。神の愛と憐れみは、私たちの恐れを越えて大きく、神を愛することへと私たちを造り替えるものなのです。

