2026年7月5日礼拝
マタイによる福音書 10章34節~11章1節

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(34~39節)


 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」。通常、私たちは、主イエスは平和を与えてくださるお方なのだと理解しています。主イエスのこの言葉は、私たち信仰者を大いに戸惑わせます。

 「平和ではなく、剣をもたらすために来た」とは、文字どおり、主イエスが私たちの家族の平和を壊すというのではありません。主イエスは、神と人の和解を成し遂げ、人と人との隔ての壁を打ち壊すのであり、真実の平和をもたらすお方です。そのお方を前にすると、私たちの家族の関係、肉親の関係がすでに壊れていることが明らかになる、ということです。家族として形は整っていたとしても、実のところ、互いの見ている方向は違っていて、関係が壊れていることが露わになる。平和の主である主イエスを前にして、露わに見えてしまうものがある、ということです。私たちの人間関係は、そもそも罪の悲惨の中にあってすでに壊れており、ドロドロした争いの中に置かれているようなものなのです。そのため、何か大きな問題が起こると繕いようがなくなってしまいます。

 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛するものも、わたしにふさわしくない」。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」。父や母、息子、娘だけでなく、自分についても言われます。肉親の関係は自分自身のことでもあり、ここで求められていることは自分を捨てることです。肉親への情愛は自己愛の延長であり、主イエスが問いかけておられることは、私たち人間の自我の問題にほかなりません。そのところで、主イエスは、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」という真理を教えてくださいます。私たちが、自分自身と家族を自分で握りしめているならば、それは失われ、主イエス・キリストのために自分の命さえ失ってよいとする者は、かえって自分の命をも家族をも得ることになる。こう約束されます。

 私たちが人間的な手段で家族を守ろうとするとき、実のところ、一人一人が家族に求めるものはバラバラで、家族はいつの間にか離ればなれになるでしょう。血縁によって家族を縛ろうとするとき、血縁はむしろ重荷となり、人を縛り付けるものとなって、呪いのようになるでしょう。実のところ、人間関係は、血縁だけであるならば、たいへんもろいものです。血のつながりは罪の力に太刀打ちできません。家族の関係、肉親の関係が、主イエス・キリストの十字架の贖いによって救い出されなければなりません。家族の関係においても主イエス・キリストの十字架による和解の恵みが必要なのです。主イエスが、ご自身の血による贖いの十字架を立てて、私たちの人間関係を造り変えてくださるのです。

 キリストを信じる者にとって、人と人とを結ぶ絆はキリストです。もちろん、信仰者とされてなお、地上でもっとも親しい隣人として肉親の関係があることは確かです。しかし、キリストによって結ばれた絆は、もっと自由で確かなつながりです。血が通う以上に、魂が触れ合うのであり、心と心が通い合う関係です。霊的な交わりを造り上げる者とされて、私たちは、自分の血縁の家族のもとへ、改めて遣わされます。

 そのところで、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」とあるように、キリストによる新しい絆、信仰の絆が徐々に広げられていく。これが主イエスの約束です。私たちが福音を告げ知らせるとは、このキリストによる人間の絆の回復を広げていく神の御業なのです。主の約束を信じて、信仰と希望と愛をもって、神と人に仕えて参りましょう。