2026年8月23日礼拝
出エジプト記 3章7節~15節

モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(11~14節)


 この箇所では、イスラエルの民をエジプトから導き出す、神のご計画が明らかにされています。その中で11節から14節まで、神とモーセの対話が書き留められます。エジプトに遣わすとの召しを受けたモーセは、「どうして」(11節)、「彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」(13節)と言って、二度、神の召しを拒みました。神を畏れることを知ったモーセですが、すぐに神に従うことができたわけではありません。主なる神は、モーセにご自分を示して、神に従うことへと導きます。モーセが神に従う者へと変えられていく、その始まりがこの出来事です。御言葉によって神を知ることこそ、真実に神を信じ、神に従う者とされる、ただ一つの道なのです。

 神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とおっしゃって、御名を啓示されました。御名は神の性質を示しています。ヘブライ語で「エフイェ・アシェル・エフイェ」で、「エフイェ」は英語のbe動詞にあたる「ハーヤー」の未完了一人称単数です。「ハーヤー」は存在を示していて、神はご自分の存在を断言し、保証しておられます。また、ご自分があらゆるものを存在させる土台、すべての存在の基だということでもあります。さらに「ハーヤー」は「生きている」という意味を含み持ち、神が生きておられ、すべて命あるものの源だということでもあります。「生きている」とは、他者との人格的な交わりを持つ主体となる人格的な存在ということです。主なる神は、確かな存在で、命があり、他者に対して働きかけ語りかけて交わりを持ち、行動する、人格的なお方です。

 使徒パウロは、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(ローマ11:36)と言いました。神がすべての源なるお方であると告白し、それに続いて、神を賛美したのです。神は私たちをはるかに超えて大きく、豊かなお方で、被造物である私たちが神を理解し尽くすことはできません。神の御名は、神を知ることへと導くと同時に謙そんへと私たちを導くのであり、神を賛美することへと思いを向けることが大切です。

 「エフイェ」は未完了であり、英語のbecomeの意味を持っています。「わたしはあるであろう」、「わたしはあるであろう者であろう」であり、時間的歴史的な奥行きがあり、意志し成し遂げるお方であることが示されています。神は、ご自分の御心のままに、ご自分のあるべき姿を追い求めて、「あるであろう者であろう」とされます。人は堕落して罪人となりましたが、神はなお人と世界を愛して、愛し続けようとなさいます。「あるであろう者であろう」とされ続けるのです。そこに神の真実があり、愛と憐れみ、正義を貫く姿があります。そして、それゆえ、人間を罪の中から救い出す、そのためにご自分の独り子をも惜しむことのない、徹底した愛の御業が生まれます。私たち人間を罪の中から贖い出し、新しい命へと招き入れる、力強い神の御業が生みだされるのです。

 やがて来られた救い主はおっしゃいました。「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)。「わたしはある」に「良い羊飼い」を補った文章で、「である」聖句と呼ばれます。ここには、そうであり続けようとする、神の御心、主イエスの決意が示されています。その実現のためにこそ、主イエスはご自分の命を捨てて、十字架につけられたのです。

 人を愛して憐れみ続ける、「あるであろう者であろう」とする神が私たちの神なのです。何と幸いなことでしょう。このお方を知ることから、主に従う歩みが始まります。そして、神のかたちに造られた私たちも、神の姿に照らして自分の姿を省み、あるであろう自らの姿を追い求めるのです。主に導かれ、絶えず新たにされる者として歩んで参りましょう。