2026年10月4日礼拝
マタイによる福音書 11章2~15節
ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
耳のある者は聞きなさい。」
救い主の道備えするために遣わされ、悔い改めて洗礼を受けるよう教えていた洗礼者ヨハネが、このとき、牢獄の中から問いかけます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。この問いには、ヨハネの信仰の揺らぎが表れています。私たちは誰もが信仰の危機を経験します。病や人間関係の苦しみ、経済的な困難の中で、どこに本当の救いがあるのかを見失うことがあるのです。
ヨハネは、その揺らぎを経験する中で、お手本となる姿を示しています。彼は自分の疑問を率直に主イエスにぶつけました。疑問が湧き、揺らいだとき、自分の内に問いを抱えて閉じこもるのではなく、主イエスに尋ねます。今の私たちならば、御言葉に聞くことです。聖書の言葉に解決はないか、ヒントはないか、考える手がかりを求めます。ふさわしい御言葉を求めて牧師に尋ねることができます。兄弟姉妹に尋ねてもよいでしょう。主イエスも、このとき聖書の言葉でお答えになりました。イザヤ書35章や61章の言葉を用いて、神の御言葉が約束していたことが実現しているではないかとおっしゃいます。主イエスはしばしば質問に対して直接答えず、聖書の言葉を用います。人生の問いは、「これが正解だ」とポンと与えられるようなものではないからです。神の御言葉と対話して、自分で思い巡らし、気づいていくことが大切だからです。御言葉に耳を傾けて神と対話するときに、主なる神ご自身が答えてくださいます。
さて、主イエスは、一方で、洗礼者ヨハネを預言者以上の者だとおっしゃいます。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」とは、すべての人間の中でヨハネがもっとも偉大だということです。「彼は現れるはずのエリヤである」ともあります。救い主を指し示す働きのゆえに、ヨハネはそのような偉大な者なのです。
その一方で、「しかし、天の国でもっとも小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われます。「天の国でもっとも小さな者」とはキリスト者のことです。主イエスに結ばれてキリスト者とされた者は、そのもっとも小さな者であっても、ヨハネよりは偉大である。すなわち、新約のキリスト者には、洗礼者ヨハネにまさる大きな幸い、大きな恵みが与えられています。偉大とは強く大きな者だというのではなく、神の豊かな恵み、大きな祝福をいただいていて、それがヨハネにまさるのです。救い主の道備えをする大きな恵みをいただいたヨハネにまさる、豊かな恵み、幸いを、新約のキリスト者は与えられている。皆さんにも与えられている。
主イエス・キリストは、人として生まれ、私たちの罪咎をすべて担い、私たちが受けるべきであった刑罰をすべてその身に負い、十字架で死なれました。そして復活し、私たちの内に生きておられます。天に挙げられ、教会と私たちに聖霊を注いで、今やキリストが私たちの内に生きておられます。パウロが言いました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。聖霊が与えられ、今や十字架と復活のキリストが私たちの内に生きておられます。ここに、ヨハネにまさる豊かな恵み、幸いがあります。私たち自身は小さな弱い者ですが、私たちの内にキリストがおられる、それゆえ、旧約最後の預言者であるヨハネよりも偉大な者とされているのです。
キリストが私たちの内におられる。それゆえ、私たちの祈りを御父が確かに聞いておられます。言葉にならない、呻くような祈りも、聖霊が御父へと届けてくださいます。そうして、折れそうな葦も折られることなく、消えそうな灯も消されることなく、むしろ確かなものとされます。絶えず新しい命を生きる者とされているのです。御言葉を聞き、この救い主を迎え入れて生きるよう、主イエスは今も私たちを招いておられます。

