2026年10月11日礼拝
マタイによる福音書 11章16~24節
今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」
「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」とは、当時の子どもたちのごっこ遊びです。結婚式ごっこでお祝いの笛を吹いたが誰も踊ってくれない。葬式ごっこで歌をうたっても誰も悲しんでくれない。そこから、「笛吹けど踊らず」は、無関心で反応のない有り様を意味することわざとして用いられます。
主イエスは、もっともらしい理由をつけて実際に取り組まない姿を嘆いておられます。洗礼者ヨハネがいなごと野蜜を食べるという禁欲的な生活をしながら荒れ野で教えていると、アイツは悪霊か何かに取りつかれていると言って受け入れず、「人の子」とは主イエスのことで、主イエスが徴税人や罪人と呼ばれる人と同じ食卓に着いて飲み食いしていると、アイツは大食漢で大酒飲みだと言って批判する。結局、何かの理由をつけて受け入れようとせず、何も変わろうとしない。主イエスは、この何も変わろうとしない姿に人間の罪を見て、嘆いておられます。
「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」。主イエスが福音を宣べ伝えて、事実、福音によって力を得て立ち上がる人たちが起こされています。それこそが福音に示される神の知恵の正しさを証ししている、ということです。それをしっかり見て、自分を変えることを引き受けるよう、すなわち、悔い改めて信仰者として生きることを始めるよう、主イエスは私たちを招きます。信じて生きることを水泳になぞらえることがあります。泳ぐことをいくら言葉で教えられても、実際に水に入って泳いでみないと、泳ぐことは始まりません。信仰者として生きることも、実際に信仰の世界に飛び込み、礼拝に加わり、聖書を読み、共に賛美し、共に祈りをささげる、それに取り組んでみてこそ始まるものなのです。
20節以降も嘆きの言葉が続きます。数多くの奇跡が行われたが悔い改めなかったとして、コラジンとベトサイダの名前が挙げられます。もう一方で、異邦人の町であるティルスとシドンの名前が挙げられて、これらの町に福音が宣べ伝えられていたら、とうの昔に悔い改めたに違いないと言われます。また、同様にカファルナウムに対しては、不品行ゆえに滅ぼされたソドムのほうがカファルナウムよりまだ軽い罰で済むと言われます。たいへん厳しい言葉ですが、主イエスはそれほどに心を痛めてコラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町々を惜しんでおられるのです。そしてこれは、受けた恵みが大きければ大きいほど神から問われる責任もまたそれだけ大きい、その表れです。福音は無償で与えられます。けれども決して安価な恵みではありません。無償だからといって、安易な気持ちで、軽んじてよいものではない。受けた恵みが大きければ大きいほど、求められるものも大きい、問われる責任も大きいのです。それゆえ、「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」(ペトロ一4:17)とあるとおり、神の裁きは神の民、教会から始まります。厳しい裁きを受けるとは、真実には、多く愛されていることの表れにほかなりません。
「悔い改めなかったので、叱り始められた」とある「叱り始めた」は、「ののしった」(マタイ27:44)と翻訳される言葉です。悔い改めないことは、ののしられ、裁かれるべきことにほかなりません。しかし、主イエスは、私たちのこの悔い改めない罪を背負って十字架につけられました。悔い改めない私たちの受けるべきののしりを自らの身に負って死んでくださいました。そうして、主イエスが罪の償いを果たして新しい命を勝ち取られ、今や私たちに罪の赦しと新しい命が、ただ恵みとして、無償で与えらえています。神の恵みに無関心であってはなりません。また、多く愛されているゆえに多くを問われるのです。日ごとに悔い改めて、主イエスに忠実に従う者でありたいと、心から祈り願います。

