2026年10月18日礼拝
ルカによる福音書 15章8~10節

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」


 ドラクメ銀貨を無くした女性が必死に捜すという、主イエスのたとえ話です。当時の家は石造りで、窓が小さく、昼間であっても薄暗いため、ともし火をつけて、ほうきで掃きながら耳を澄ませます。コインが床の石に当たって音を立てる、その音を頼りに捜すのです。そうして念入りに捜して、見つけ出すと、嬉しくてたまりません。友だちや近所の女性たちを呼び、「一緒に喜んでください」と言ってもてなします。

 これは女性の物語です。当時、女性は基本的にお金を所有していませんでした。お金を所有するどころか、自分自身も主人の所有物で、自由になるお金は何もないことが一般的でした。その中で、ただ一つの例外が結婚の持参金だとされます。結婚の持参金だけは女性の持ち物とされ、たとえ何かあって、その家の全財産が失われた場合も、持参金にだけは手が付けられず、女性を守る唯一で最後の財産となりました。そのため、親は娘のために精一杯の持参金を持たせるものであった。おそらく、このドラクメ銀貨は、そのような持参金だったのだろうと言われます。

 ドラクメはギリシアの銀貨で、ローマの銀貨であるデナリオンと同じく一般的な労働者一日分の賃金にあたります。今の私たちならば1万円くらいでしょう。ドラクメ銀貨十枚、10ドラクメは、当時の持参金としては少額だそうです。おそらく貧しい生活の中で必死に娘に持たせたのであり、娘の幸せを願う親の愛がぎっしりと詰まっていた10ドラクメなのです。また、ドラクメ銀貨の中央には穴が空いていたそうです。おそらく、紐を通して首飾りのようにしてずっと身に着けていたため、紐がほころんで切れてしまい、銀貨が床に散らばったのでしょう。9枚はすぐに見つかり、けれども残りの1枚がどうにも見つからない。そのようなドラクメ銀貨を「一枚無くしたとすれば」と主イエスはおっしゃいます、「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」、捜すに決まっているではないか、ということです。彼女にとってかけがえのないもの、なくてはならないものなのであり、彼女は決してあきらめることなく、見つけるまで捜し続けるに違いない。そして、見つけ出したら、友人を招いて「一緒に喜んでください」と言うに違いない。

 真実には、この無くなった銀貨とは、私たち一人ひとりのことです。このたとえで、無くした銀貨を捜す女性は生けるまことの神の姿を示しています。神は、かけがえのないものを無くしたとおっしゃって、捜し回っておられます。そして、私たちが無くなった一枚のドラクメ銀貨にほかならない。この一枚の銀貨のように、私たちは、神にとって、かけがえのないもの、なくてはならない存在なのです。神は、私たちを捜し回ってくださっている。神は、私たち一人ひとりを、あなたのことを、無くてはならない存在として、捜し求めておられます。

 10ドラクメの内の1ドラクメと考えると、大したことはないと思うかもしれません。私たちはしばしば周りと比べて、自分にどれほどの価値があるのだろうかと思います。当時の女性が自分では何も持たず、価値もないとみなされていた、そのように、わたしも何も持たず、何の価値もないのではないか。そう思うこともあるかもしれません。けれども、主なる神は、決してそうではないとおっしゃいます。人間とは、真実には、周りと比較してどうこうではないのです。主なる神は、私たちを見つめて、あなた自身に目を留めて、おっしゃいます。イザヤ書43章4節、「わたしの目にあなたは価高く、尊く」。神の前に、私たち一人ひとりがかけがえのない存在なのです。それゆえ、主なる神は私たちを捜し回り、見つけ出し、ご自分のものとするために大きな犠牲を払ってくださいます。イザヤ書は「わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え」と続きます。すなわち、神は、ご自分の独り子さえ惜しむことなく、身代わりとして与えてくださいました。そうして、私たちをご自分のものとして取り戻してくださいました。主イエス・キリストが十字架につけられて、死んでくださったとは、そのことにほかなりません。そうして、私たちは皆、神にとってかけがえのないものとして、教会に集められ、共に礼拝をささげる者とされています。

 そして、「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と言われます。悔い改めとは神のみもとに立ち帰ることで、神は私たちが神のみもとに立ち帰ることを喜ばれます。無くした銀貨が手元に戻って女性が喜んだように、私たちが神のみもとに立ち帰ることを神は大いに喜ばれます。「神の天使たちの間に喜びがある」とは、喜んでおられる神に応えて天使たちも一緒に喜ぶということです。神は喜ぶことをお求めになるのであり、天上で天使たちが一緒に喜び、そこに地上の私たちも加えられて、私たちは皆、一緒に喜びます。

 ドラクメ銀貨を見つけた女性は、喜びを分かち合う中で、どうしてその銀貨がそれほど大切なのか、労苦や忍耐を話したでしょう。実のところ、喜びを分かち合う中で、苦しみや痛み、労苦を分かち合うことが起こります。喜びだけではなく、苦しみや労苦をも共に分かち合い、慰め合い、励まし合うことが始まります。主なる神のものとされて生きる交わりの喜びは、そこにあります。神のものとされて生きる。それは、神から与えられる、この交わりに生きることです。そうして、私たちは、私たちを必死に捜し求めてくださる、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを知ることへと導かれるのです(エフェソ3:18,19)。

 私たちは皆、神の前にかけがえのない存在とされています。価高く、尊く、私たち皆、神の喜びとされています。多くの方に、この喜びの輪に加わって歩んでいただきたいと、心から祈り願っています。