2026年1月18日礼拝
マタイによる福音書 8章14~17節
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」
主イエスは、私たちのまことの王であられますが、同時に、救い主として私たちに仕えて歩まれるお方です。この箇所には、人びとに仕えて歩む主イエスのお姿がとても印象的に示されています。
主イエスの弟子のペトロには家族がいました。妻がいて、妻の母も引き取って、一緒に暮らしていたようです。家族がいる中で主イエスの弟子として歩み始めて、家族のことを気がかりに思いながらも、ペトロ自身は主イエスに従うことで必死だったでしょう。その中で、ペトロのしゅうとめが病気であるとの知らせがもたらされました。ペトロの家族を知っている人たちが、ペトロの妻のお母様が高熱で床に伏していると、主イエスに伝えたものと思われます。すると、主イエスは、ご自分のほうから進んでペトロの家を訪ねて、しゅうとめをおいやしくださいました。
主イエスは、私たちを愛するのと同じように私たちの家族をも愛して、大切にしてくださいます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と命じられて主イエスを第一にして歩むとき、神ご自身が私たちの生活を支えて導き、私たちの心の願いをかなえてくださます。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」との約束は真実なのです。使徒パウロをとおして、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)との約束も与えられています。ペトロのしゅうとめは回復すると主に仕えましたし、やがてペトロの妻はペトロと一緒に伝道旅行をしたと伝えられています。主イエスは、私たちの家族をもみもとへと招いてくださる、まことの救い主であられます。
さて、ペトロのしゅうとめは、回復すると起き上がって主イエスをもてなしました。彼女は、肉体のいやしだけでなく、心の力、生きる力をも回復させられ、そのことへの感謝をあらわして、主イエスをもてなしたのです。そして、起き上がって人をもてなし、皆さんに喜んでいただくことができる、それが生きる力となります。人はだれしも年を重ねて、老いていきます。しかし、その中でも、主なる神は私たちの人生を支え、生きる力を与えてくださるお方です。神に仕え、人に仕えることが、いつまでも私たちの力となり、支えとなるのだと言えるでしょう。
人びとは病気の人たちを次々に主イエスのもとに連れて来ます。連れて行ってよいのかという躊躇はまるでないようです。私たちならば、これは牧師の領域ではない、大げさにしたくないなどと考えるでしょう。しかし、そんなことは思わなくてよいのです。聖書は言います。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」(ヤコブ5:14,15)。「教会の長老」とは、今日であれば牧師でも長老でも執事でもよいのです。ぜひお知らせください。祈ります。一緒に祈ります。オリーブ油は、当時、傷口に塗る薬として用いられていました。今日ならば、医療の力を用いることです。医療の力を用い、同時に、祈ることを大切にします。キリスト者は、医療の力を認めますが、医療の力そのものを頼みとして信じるのではありません。それにいかに力があろうとも、主の祝福がないならば、むなしく終わることも起こるからです。主の名によって祈り、その祈りの中で、医療の力が用いられることを願います。真実に人をいやし、回復させて立ち上がらせるのは、命の主であるまことの神であられます。
こうして病からのいやしと回復が与えられて、病は恵みへと変えられます。もちろん、病気はないほうがよいものです。けれども、私たちの弱さにおいて主が働いてくださいます。弱さにおいて、主の恵みと慈しみが現される。それが、私たちの確信するところなのです。

