2026年2月1日礼拝
マタイによる福音書 18章18~20節

はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」


 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20節)。この御言葉は、教会の土台、教会の礎が主イエス・キリストにあることを明らかにしています。その教会は祈りと結びついています。二人または三人が何のために集まるのか、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」とあるとおり、祈るためです。二人、三人が心を一つにして祈るなら、どんな願い事であれ、天の御父はかなえてくださる。そして、「どんな願い事であれ」とある願い事は罪の赦しです。私たちが何をもっとも祈り求めるべきなのか。それは、罪の赦しにほかなりません。

 この箇所の直前では、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とあり(15節)、兄弟をいかにして悔い改めに導くのかが取り上げられています。まず個人的に忠告し、二人三人で戒め、それでも悔い改めない場合に教会的に取り扱わるという順序が示されますが、順序という以上に、それほどに兄弟姉妹を得るために労苦すべきだということです。その労苦によって、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ」ると約束されます(18節)。地上において労苦して兄弟を得ることは、その兄弟を天上においてもつなぎとめることになる、たいへん大切な働き、尊い労苦にほかなりません。

 私たちは、十字架の主の御前に悔い改めて、罪の赦しの恵みにあずかります。19節の「どんな願い事であれ」とは、「何でも」という意味ではなく、どれほど難しい願い事であっても、ということです。実のところ、罪の赦しほど難しいことはほかにありません。赦したと思っても、繰り返し繰り返し怒りや嘆きが心に湧き起こる。人間の心はそういうものなのです。忘れたと思っていても、ふとしたときに心に浮かび、一筋縄ではいきません。その、どれほど難しい願い事であれ、「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。これが主イエスの約束です。この約束に信頼して、私たちは、罪の赦しを求めて共に祈ります。そして、主イエス・キリストは、私たちの罪の赦しの実現のために、ご自身の命さえ惜しまれませんでした。十字架につけられ、肉を引き裂かれ、血を流してくださいました。私たちの身代わりとして罪を背負って死んでくださったのです。

 私たちは皆、この十字架による罪の赦しを必要としています。神の御前に罪のない人はいません。わたし自身も罪人です。ほかの誰かではない、自分こそ神の御前に罪人であり、神の御前から追放されても仕方がない存在です。けれども、どうか罪を赦して神の御前に留まる幸いをお与えください、そう祈り、また兄弟姉妹の罪の赦しのために互いに祈ります。こうして罪の赦しを共に祈り求め、罪の赦しに生きる。そこに十字架の主イエス・キリストが共におられ、それがキリストの教会なのです。

 教会とは、こうして自分自身をキリストの十字架のもとに立たせ、また、お互いをキリストの十字架のもとに招いて立たせ合う交わりです。相集いて共に一人の主、十字架のキリストを仰ぐ。そして、キリストの十字架のゆえに、私たちは互いを尊敬し、受け入れ合うことへと導かれます。そこにおいて私たちは自分自身と戦うのです。主イエス・キリストに結ばれて新しくされた者として、罪の自分、古い自分と戦います。それは聖霊に導かれるものであり、そこでも神の御業が成し遂げられていきます。決して私たち自身の業、人間の業として成し遂げられるのではありません。ですから、あせらなくてよい。キリストの十字架のゆえに罪の赦しの恵みは確かであり、ここに教会の土台があり、新しい始まりがあります。