2026年2月8日礼拝
マタイによる福音書 8章18~27節
イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
二人の人が主イエスのところにやって来ました。一人は律法学者で、彼は主イエスの弟子になりたいと言います。主イエスのくすしき御業を見て驚き、心動かされたのでしょう。主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と答えて、彼に冷静になることを求めました。信仰とは、決してただ感情に動かされて決断することではありません。もう一人は主イエスの弟子で、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言います。主イエスは「わたしに従いなさい」と答えます。おそらく主イエスは、父の葬儀は口実に過ぎず、彼の心に主イエスへの不従順があることを見抜かれたのです。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とは、主イエスの弟子とされて、もはや属している世界が違うことを心に留めなさいということです。
この二つの出来事は、方向性は正反対ですが本質的には同一線上にあります。信仰者として生きるとは、もはや属している世界が違うということです。私たちは地上に属するのではなく、天の御国に属するのです。私たちは天を本国とするのであり(フィリピ3:20)、それゆえ地上においては旅人であり、仮住まいの身にほかならない(ペトロ一2:11)。
そして、この二人への言葉に先だって、主イエスは、弟子たちに向こう岸に行くように命じました。すなわち、私たちは向こう岸に向かうのです。これまで帰るべき場所であったところ、自分が属していたところから離れて、向こう岸へと向かう。向こう岸へと漕ぎ出すこと、それが信仰者の歩み、主イエスの弟子としての歩みにほかなりません。私たちは、天の御国、とこしえの神の御国を目指して、主イエスが共におられる舟に乗って向こう岸へと漕ぎ出す者とされているのです。
向こう岸へ漕ぎ出すと激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになります。私たちも、主イエスに従って歩み始めて、嵐に襲われることを経験します。このときの弟子たちと同じです。舟の中で主イエスは眠っておられました。体を休めておられたのです。それはよいとして、嵐のときには目を覚まして、率先して力を貸してくれてもよいように思えます。しかしまた、このとき主イエスが眠っておられたように、神は眠っておられ、私たちの声を聞いてくださらない、そう思えることが確かにあるのです。
弟子たちが助けを求めると、主イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と答えて、風と湖とを叱ります。すると、すっかり凪になりました。一つには、主イエスは私たちの信仰の小ささを指摘しておられます。信じ切ることができない弱さです。私たちを愛してくださる神への信頼に立ちきることができず、目の前の嵐に翻弄されて、信仰が吹き飛んでしまう。しかし真実には、嵐の中でも神は共におられます。ですから、嵐にも動かされず耐え忍ぶ、大きな信仰が求められています。もう一つには、弟子たちが近寄って主イエスを起こしたように、私たちも主なる神に近寄って大胆に祈り求めることができます。信仰者は、神に信頼して、大胆に祈り求めます。大きな信仰で神を信頼して祈らないというのではなく、大きな信仰で神を信頼して大胆に祈る。これが主イエスの求める信仰の姿です。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:6,7)。この約束が信仰者には与えられているのです。
こうして、嵐を耐え忍ぶことを通して、私たちは主に信頼して歩むことを学び、信仰者として訓練されます。一つの舟に乗って向こう岸へと漕ぎ出す中で、主イエスの弟子、神の民として共に成長させられていきます。私たちのその歩みを、主イエス・キリストが先立ち導いてくださるのです。

