2026年2月22日礼拝
マタイによる福音書 8章28~34節

イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。


 主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖の東側に着きました。主イエスが岸を上がると、二人の人が現れました。ガダラ人の地域であり、異邦人だと思われます。主イエスは、この二人に会うために、危険を顧みず、湖を渡られました。主イエスは、たとえわずかな人数であろうとも、救いを求める者がいるならば、力を尽くしてくださるお方であられます。

 二人は悪霊に取りつかれていました。心の病のことだと思われるかもしれませんが、これは古代の人びとの表現で、今の私たちが考えるよりも、幅の広い内容を持っています。悪霊とは、人を生きることから引き離し、生きようとする思いを打ち砕いてしまう悪い力です。理由は分かりませんが、二人は生きることに絶望し、家族や友人、他の人びととの交わりを拒絶していたものと思われます。彼らが墓場から出て来たとは、通常の人間関係を拒み、社会的に死んだような状況だったことを示しています。そして、生きることに絶望すると、暴力的にもなりやすいものです。これは、決してこの二人だけに特有な、特別なことではありません。人はだれでも、悩みと苦しみを抱える中で、生きる意味を見失ったり、生きることへの意欲を失うことがあるのです。この二人は、私たちの中の一人であり二人なのだと言えるでしょう。主イエスは、この二人の人に生きる力を与えるためにこそ、はるばる湖を渡って来られたのです。

 二人が叫んだ「かまわないでくれ」とは悪霊の言葉です。かかわらないでくれ、二人のことは放っておいてくれ、ということです。けれども、主イエスは決して放っておかれません。主イエスにとってかけがえのない人は一人もいないのです。悪霊どもは、主イエスの沈黙に、二人を解き放つ決意を見て取ったのでしょう。せめて「あの豚の中にやってくれ」と言います。見逃してくれという願いです。主イエスは「行け」とおっしゃいましたが、それは悪霊どもを見逃すということではありません。豚の群れは崖を下って湖になだれ込みます。「水の中で死んだ」とは、滅ぼされたということです。こうして、主イエスは悪霊をも支配しておられ、悪霊を追い出し、人を悪霊から解き放つ力をお持ちのお方です。

 この出来事は、この二人にとって、自分自身が揺り動かされ、試みられる経験だったでしょう。自分の心の内に、人との交わりを拒み、生きることに絶望する思いがあったのです。その思いを揺さぶられる経験をしたはずです。主イエスは、人の心を揺さぶり、目を覚まさせます。そうして、私たちは我に返ることができます。自分自身を取り戻して、生きる力と希望を与えられます。主イエス・キリストを通して、私たちを愛する神の愛を知り、生きる意味を見出し、生きる意欲を回復させられるのです。

 この世界には、人から生きる意欲を奪い取る、さまざまな力があります。人を縛り付けるさまざまな考えや習俗があって、私たち自身ではそれらに立ち向かうことができません。主イエスこそが、私たちに力を与え、立ち上がらせてくださいます。パウロはこう言います。「……主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、……しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(エフェソ6:10-13)。

 福音書は、こうして、悪霊に勝利しておられる主イエスの姿を私たちに示して、この主に依り頼むよう、勧めます。私たちが、まことに信頼を寄せて依り頼むべきは、このお方、ただお一人です。私たちは、神の御言葉を学び、祈ることによって、霊的な戦いを戦います。その戦いの中で、私たちは、人として真実に健やかに生きることへと導かれるのです。