2026年3月1日礼拝
マタイによる福音書 9章1~8節

イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。
ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。


 主イエスが帰って来られると、中風の人が主イエスのところに連れて来られます。「中風」とは手足が麻痺している状態のことで、家族や友人が彼を担架に乗せて主イエスのところに連れて来ました。ルカ福音書5章にその様子が詳しく記されていますが、マタイ福音書はそれらを省いて、ただこう書き留めます。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた」。

 「その人たちの信仰を見て」とは、一つには中風の人自身の信仰です。一途に主イエスに依り頼もうとする、まっすぐな姿です。また、ありのままの姿で主イエスの前に進み出たことでもあるでしょう。主イエスはその信仰を喜ばれました。もう一つには、中風の人を連れて来た仲間たちの信仰です。彼らは中風の人のいやしを祈り求め、執り成して行動しました。まだ見ぬことをも必ず成る、成し遂げられると信じる信仰でもあります。執り成しに生きる信仰、見ないで信じる信仰を、主イエスは喜ばれます。

 主イエスご自身、執り成しに生きて、ご自身をささげてくださったお方です。主イエスは、まだ見ぬ神の民のために、まず御自分の血を流して、御父に祈ってくださいました。その執り成しによって、私たちは御父に受け入れられています。それゆえ、私たち信仰者も、主イエスに依り頼んで、隣人のために執り成します。信仰とは、見ないで信じることであり、まだ起こっていないことを必ず成ると信じて、執り成すことなのです。

 さて、「あなたの罪は赦される」、これは正確には「赦されている」です。また主イエスは、「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問いかけます。そのことによって、人間にとって根本的かつ究極的に大切なことは、罪を赦すことであり、罪赦されて生きることだとおっしゃっているのです。私たちは、病気になって長く苦しみますと、いったいどうして自分は病気になったのだろうかと考えるものです。あれがいけなかったのだろうかなどと考えて、自分を責めることになりがちです。また、この病にどんな意味があるだろうかとも考えます。理由や意味を求める、それが人間という存在です。人は心で生きる存在であり、理由や意味を見いだせないことに苦しむ。病そのものも苦しみですが、それに増す苦しみがあると言えるでしょう。

 「あなたの罪は赦されている」。主イエスの罪の赦しの宣言は、そのような病の人に対する励ましの言葉です。また、「元気を出しなさい」とは勇気を出しなさいということであり、安心して行きなさいということです。自分を責めなくてよい。決してあなたのせいではない。人のお世話にならなければならないことで苦しむ必要はない。そういうことでもあります。人間とは、そもそも互いに支え合って生きていくものなのです。まして弱さの中にあって、互いに支え合い、励まし合うことは当たり前ではないか。まったく、そのことで、自分を責めたり、苦しんだりしなくてよい。そう励まされて、人は生きていく力と勇気が心に湧いてきます。

 なぜ病になったのか、なぜ苦しみがあるのか。その理由や意味は、主なる神が背負われます。主イエス・キリストこそが、私たちの人生に、私たちの病や労苦に、意味を与えてくださるお方です。そして、弱さにおいて互いに励まし合い、支え合うことによって、私たちの交わりが成長させられます。何よりも、困難の中で共に労苦することで人は生きる喜びを味わいます。人が生きる意味は、弱さにおいて支え合い、労苦して、生きていることを共に喜ぶことにあります。弱さを共に耐え忍び、労苦して、そうして皆が笑顔で生きることが大切なのです。主イエスは、今も「あなたの罪は赦されている」と語り続けておられます。私たちは皆、その御声に力づけられて起き上がり、主イエスに結ばれて歩むのです。