2025年7月27日礼拝
マタイによる福音書 5章38~48節
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と、主イエスは無抵抗で自分を差し出すようなことをおっしゃいます。そのようなことで自分や自分の家族を守ることができるのか、この社会の秩序が成り立つのかと思わされます。
「目には目を、歯には歯を」は同害復讐法と言われ、古代から広く知られている教えの一つです。旧約の律法にも、「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。……目には目を、歯には歯を……」(レビ24:19,20)とあります。ただし、同害復讐法は決してやり返せと教えるのではなく、それ以上やり返してはならないという教えです。過度な復讐を戒めるのです。聖書の場合、それに加えて、自分で復讐するのではないということが大切にされます。裁判に基づく処罰として同害まで認められるのであり、決して自分で復讐するのではありません。
それに対して、主イエスは「左の頬をも向けなさい」「上着をも取らせなさい」「一緒に二ミリオン行きなさい」と、自分を差し出すことを教えます。復讐が戒められるどころではなく、自らを差し出す生き方が求められます。また主イエスは、「隣人を愛し、敵を憎め」に対して、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃいます。自分を憎み、敵対してくる者も、決して敵ではなく、愛すべき隣人にほかならない。隣人とは、誰かを排除して用いられる言葉ではないのです。
これらの御言葉から、一つには、復讐心に捕らえられてしまう私たち人間の罪と愚かさ、また私たちの心の狭さを示されます。隣人の範囲を限定し、自分を差し出すことの小さな、心の狭い者だと思わせられます。愛も憐れみも私たち自身の内にはないと言わざるを得ません。
もう一つとして、私たちの愛とはまったく違う神の愛に気づかされます。神の愛は、感情としての愛ではなく、決断としての愛です。私たちの愛は、相手のことをいとおしく思い、好きだと思う、感情に基づいて愛する愛です。ですから、その感情が失われれば愛することも止めてしまう。それに対して、神は愛すると決断して愛してくださる。もちろん、神は私たちのことを好ましいと思い、心から愛してくださいます。しかし、それ以上に、たとえ好ましくなかったとしても愛する愛です。ご自身に敵意を向け、逆らう者をも愛してくださる。神の愛とは、そのような憐れみに富む、決断としての愛です。だからこそ、愛される理由など何もない者をも愛されます。そして、それゆえ範囲を限定することなく、敵をも愛する愛であり得ます。主イエスは、そこに天の父の完全さがあり、その愛によってこそ完全があるのであり、律法も成し遂げられ、全うされるのだとおっしゃいます。律法学者やファリサイ派の人びとの義にまさる義とは、このような愛と憐れみによって成し遂げられるものなのです。
主なる神は愛と憐れみに満ちたお方です。そのお方が、私たちのことを憐れみ深い愛で愛して、独り子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。そして、主イエスは、まさに悪人に手向かうことなく、左の頬をも向け、上着をも取らせ、二ミリオンどころかどこまでも一緒に行き、求める者にすべてを与えて、十字架につけられました。その主イエスが、復活して天に上げられ、今や聖霊によって私たちと共におられます。私たちの内に働いて、天の御父と同じように愛と憐れみに生きることができるよう、私たちを造り変えてくださいます。私たち自身の内には愛も憐れみもありません。けれども、主イエスが共におられて、私たちも愛と憐れみに生きる、決断としての愛に生きることができます。「あなたがたも完全な者となりなさい」。主イエスが、御言葉と聖霊によって、私たち一人ひとりにおいて、このことを確かに成し遂げてくださるのです。

