2025年8月17日礼拝
マタイによる福音書 6章5~15節
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(5~8節)
キリスト者の信仰は、祈りにおいてもっともよく表れると言われます。大学生の頃、食事の前に祈っていたら、「何の変わりもないように見えるが、お前はやはり信仰者なんだなあ」と友人に言われました。祈る姿が信仰者としての証になることは間違いないのだと思わされます。
主イエスは、ここで当時の人びとの祈りにおける過ちを指摘しておられます。それは真実の祈りをささげることへと私たちを導くためです。人はだれでも人間の本質の一つとして当たり前に祈るでしょう。けれども、まことの神を見失った今、私たちは正しい祈りを知らない者となっています。祈りは、学んでこそ正しく祈ることができます。ですから、主イエスは、過ちを指摘するだけでなく、「主の祈り」を教えてくださいました。
祈りにおいて陥りやすい過ちの一つは、偽善者のような祈り、見せかけの祈りです。当時、会堂に行ったり通りに出たりして、人目につく場所で祈ることがあったようです。今の私たちは通りに出て祈ることはありません。しかし、私たちも、ほかの人と一緒に祈るとき、集会で代表して祈るとき、恥ずかしくない祈りをしたいと考えてしまうことがあります。そうなると、人に聞かせる祈りになっているのかもしれません。そこで大切なことは、祈りの根本を忘れないことです。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。すなわち、祈りとは父なる御神が聞いてくださるものだということです。私たちは神と向かい合っているのであり、人前で祈るときも、人がどうこうではなく、神へと思いを向けます。
ですから、祈りは、「天におられるわたしたちの父よ」と、神に呼びかけることで始めます。「天の御父」「天のお父さま」「神さま」「主よ」、言葉は何でもかまいません、呼びかけます。最初だけでなく、祈りの合間にも呼びかけます。こうして、人に聞かせる過ちから守られて、私たちは隠れたところにおられる御父に祈ることへと導かれます。
過ちのもう一つは、「異邦人のようにくどくどと述べ」ることで、これは呪文のような祈りです。熱心なあまり言葉数が増えるというのではなく、同じ言葉を呪文のように繰り返して言葉数が増えるのです。祈りも、呪文のようなことになると、自分の都合で神さまを呼び出すようなことになりかねません。呪文を唱えて神さまを呼び出し、自分の願いをかなえてもらい、あとはお帰りいただくだけ、そのようなことでは、それは祈りではありません。まことの神を自分のしもべにして、実は自分が御主人様になっている、そういう過ちに陥ってはならないのです。神を神とする、祈りにおいてもそのことが貫かれなければなりません。
キリスト者の祈りの特徴は、祈りの相手を知っているところにあります。それも、その存在とお名前を知っているだけでなく、そのお方がどのようなお方であるのかを知っています。神は生きておられ、天と地を造り、私たち人間をお造りくださいました。私たちを愛して慈しみ、今も私たちを支え、導いてくださいます。私たちが神から離れてなお、主なる神は私たちを愛して変わることがありません。それゆえ、ご自身の独り子さえ惜しむことなく与えてくださいました。独り子イエス・キリストの十字架の肉と血を私たちの罪の償いとし、ご自身の宝の民の一人として私たちを取り戻してくださいました。そして今、御父は、私たちのことを、ご自分の子と呼んでくださいます。「愛する子よ」と私たちに呼びかけて、愛と慈しみをもって配慮してくださる。そのことを私たちは知っています。
主イエスはおっしゃいます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。祈りの秘訣は、神への信頼です。御子をさえ惜しむことなく与えてくださった御父、愛と配慮に満ちた生けるまことの神に信頼して、心からの祈りを神にささげて参りましょう。

