2026年5月31日礼拝
マタイによる福音書 10章1~4節
イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
主イエスは弟子の十二人を呼び寄せ、権能を授けて遣わされます。十二人とは、旧約の十二部族になぞらえたものと思われます。「使徒」は、新約のキリスト教会を建て上げる要として立てられました。それで、新約の神の民の柱となる十二人ということです。主イエスは、この十二人を遣わすことをとおして、教会を建てて遣わしておられます。この箇所には、福音を宣べ伝える教会の働きの先駆けがあると言うことができます。
さて、「使徒」は「遣わす」という動詞に由来する言葉で、「遣わされた者たち」という意味です。使徒という職務が先にあったのではなく、「遣わされた者たち」という言葉が職務の名称になっていったのです。使徒たちは、「使徒」と呼ばれるたびに、自分は主によって立てられ遣わされた者なのだと繰り返し思い起こし、志を新しくしたでしょう。そして、使徒たちだけ、あるいは今日の牧師や長老、執事だけではありません。私たちキリスト者みなが、言葉の本来の意味で、遣わされた者たちにほかなりません。私たちは信仰者とされてただちに、主によって、地の塩、世の光として遣わされています。神の民とされるとは祭司の民とされているのであって、神と人に仕える者、世界と隣人に仕える者として遣わされている。それが、使徒たちが遣わされたということです。
遣わされた者であるとは、小さく力なくけがれた器である私たちにとって、福音であり、解放でもあります。遣わすお方がおられるのであり、私たちが遣わされたことの責任は遣わした方が負ってくださいます。そう思って、心安らいでよいのです。もちろん、遣わされた私たちも、怠惰になることなく、主の召しに応えて歩むことが大切です。遣わすお方への信頼に立って、自分の取り組むべきことに熱心に取り組みます。
主イエスは十二人に「けがれた霊に対する権能をお授けにな」りました。主イエスは、目に見えるところでは弟子たちを手ぶらで遣わしますが、もっとも大切なものを与えて送り出しておられます。「けがれた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため」とありますが、主イエスによる病のいやしは、まことの神を知り、神を賛美する者として立ち上がることと一つでした。当時、病は罪から来ると考えられていたのであり、けがれた霊に対する権能とは罪を赦す権威にほかなりません。その点で、福音を宣べ伝える手段は霊的、信仰的なものであり、神の御言葉にこそ力があります。飼い主のいない羊のような人びとがまことの救い主を知り、神共にいます幸いに生きるようになることが目指されるのです。
使徒たちの名前が紹介されています。率直に申しまして、生まれ育ちがよいとか、宗教心に厚く熱心だったとかではありません。一番弟子のペトロも「無学な普通の人」(使徒4:13)でした。神の召しはただ恵みにほかならないということです。また、何とバラエティーに富んでいることでしょう。実にいろいろな人びとが集められていて、彼らを一つにまとめることは難しかっただろうなあと思うのです。とりわけ、熱心党の人がおり、元徴税人がいます。互いに反目してしまう彼らをしりぞけることなく、主イエスは教会の柱とされました。主は一人、信仰は一つ。それゆえ、彼らは遣わした主イエスに忠実に仕えて歩みました。すなわち、私たちに求められる責任は、遣わすお方に忠実であるということです。使徒たちは、さまざまな違いを乗り越えて、共に主に仕えて歩みました。
主イエスは、私たちのような小さな者によって福音が宣べ伝えられ、教会が建て上げられることを喜びとされるお方です。私たちは、そのお方によって遣わされ、そのお方から力を与えられて、神の国の福音、罪の赦しの恵みを告げ知らせます。小さな者に尊い使命を与えて遣わしてくださる神をあがめて、委ねられている務めに忠実に励んで参りましょう。

