2026年5月24日礼拝
使徒言行録 2章1~13節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1~4節)
ペンテコステは五旬祭で、過越祭から五十日目の祭りです。旧約時代には七週祭と呼ばれました。もともとは春の収穫感謝の祭りで、小麦やいちじくなどの収穫をささげて、神に感謝を表しました。そして、主なる神は霊の糧、御言葉の糧も与えてくださいます。七週祭は、十戒をはじめとする神の律法が与えられた恵みに感謝する祭りでもありました。聖霊降臨に際して、激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、炎のような舌が現れたとは、シナイ山における律法授与を思い起こさせるような出来事だったでしょう。聖霊降臨とは、神の御言葉が新たに与えられて、新約の教会が生み出された出来事なのだと言うことができます。
主なる神は、エレミヤ書で「新しい契約を結ぶ日が来る」と約束しておられました。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。……すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ31:31-33)。そして、使徒パウロはこう言いました。「あなたがたは、……墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(コリント二3:3)。「石の板」とは、かつてのモーセのときに与えられた律法です。それに対して、「人の心の板に」と言われるのが、エレミヤ書に「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」とあるもので、それが生ける神の霊によって成就したのだと言われます。こうして、新しい契約とは、聖霊によって律法が私たちの胸の中に授けられること、神の御言葉が心に記されることにほかなりません。主なる神は、聖霊によって律法を私たちの胸の中に授け、心に律法を記すことを成し遂げてくださるのであり、ペンテコステがその始まりなのです。
新しい契約においても「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:33)のであり、契約の内容は変わりません。新しい契約の新しさは、御言葉が与えられる方法、手段です。石の板に刻まれた、私たちの外側のものとしてではなく、私たちの胸の中にであり、私たちの内側に与えられます。すなわち心が造りかえられ、新しくされるのであり、神の御心、律法を喜ぶ心が与えられ、神の御心に喜んで聞き従う者とされます。決して重荷としてではなく、人として生きるために必要なこととして納得できる、心からの喜びとして、与えられます。私たちの心が新たにされ、神に聞き従うことを私たち自らが選び取り、喜びとしていく、そのようなものとして、御言葉が新たに与えられます。その点で、新約時代に生きている私たちは何と幸いなのでしょうか。
集められていた弟子たちは、聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままにほかの国々の言葉で話し出しました。その具体例としてペトロの説教が書き留められ、その日のうちに三千人ほどの人が洗礼を受けたと記録されています。これは、心から理解し納得できる、生きた神の御言葉として彼らが聞いたからこそ、成し遂げられました。こうして、全世界に神の言葉が告げ知らされる、世界宣教が始まっていったのです。
ペンテコステに際して、胸に授けられ心に記される言葉として神の言葉を聞くことの大切さを改めて心に留めています。いつも新しく神の御言葉に聞き続ける、自分への生きた言葉として聞く、そうしてこそ、私たちは神に聞き従う者であれます。傲慢になって自分が神のようになるのではなく、へりくだって神を神とし、御言葉によって造り変えられることを喜ぶ。そうしてこそ、絶えず悔い改めて、謙そんに生きることができます。そのために、主なる神は、聖霊にあって私たちのうちに住み、私たちを新しくしてくださいます。この聖霊の恵みが豊かであるよう、そして御言葉に聞く教会として歩み続けることができるよう、心から祈り願います。

