2025年11月23日礼拝
マタイによる福音書 7章24~29節

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。


 主イエスは、御言葉を聞く者の姿勢を教えて、山上の説教の締めくくります。「群衆はその教えに非常に驚いた」とは、「権威ある者としてお教えになった」ことに驚いたということです。すなわち、主イエスの言葉に権威と力を認めて、聞いて行うことが大切です。主イエスは、御言葉を聞くだけでなく、聞いて行う者となることを求めておられます。

 主イエスは、御言葉を聞くことを家を建てることにたとえます。御言葉を聞いて、自分の人生を建て上げていくからでしょう。二人の人が土地を探して家を建てます。やがて雨が降り、川があふれ、風が吹いてくる。すると、一方の家は嵐の中でも倒れることがなかった、岩を土台としていたからであると言われます。しかし、もう一方の家は嵐の中で倒れてしまった、砂を土台としていたからであると言われます。

 ここで言われる「賢い人」「愚かな人」とは、人間的な意味の知恵や思慮深さではありません。この箇所は、エゼキエル書13章13~16節を背景としています。民を惑わす偽りの預言者、占い師たちに対して、暴風を起こし、豪雨を降らせ、建物の基礎を破壊すると言って、終わりの日の裁きを告げています。主イエスのたとえの嵐も終わりの日の裁きを意味します。その点で、賢いとは神の裁きを知っていることであり、愚かであるとは神の裁きを知らず、その備えをしていないということです。地上の人生を見ているだけならば、岩の上に家を建てたか、砂の上に家を建てたか、その違いは分からないかもしれません。けれども、その違いが分かる時が来る、すべてが明らかにされる時が来る、と言います。

 私たちが建て上げる人生とは、真実には地上の人生だけではありません。私たちの人生は天上へと続く、とこしえの命へと続くものです。狭い門から入ることが求められるのも、その道が命に至る道だからです。人生を建て上げるならば、とこしえの命へと続く人生があることを知って、そのために岩の上に家を建てよとおっしゃるのです。

 「岩の上に家を建てる」と言われる「岩」は、聖書では主なる神を指します。詩編62編3節に「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」とあります。「決して動揺しない」とは決して揺るがないということですが、わたし自身が確かだから揺るがないのではありません。土台である神が岩のように揺るがないお方なのです。神こそわたしの岩、わたしの揺るがない土台。そして、この神の不動性は、神の愛が揺らぐことがないということでもあります。神の愛は変わることがない。神の愛はとこしえに変わらない。

 神は、そのとこしえの愛で私たちのことを愛して、私たちを導き、助けてくださいます。それゆえ、主イエス・キリストが与えられました。今や独り子である神が救い主として来られて、十字架のイエス・キリストが私たちの土台です。私たちにとって、主イエス・キリストが我が岩、我が砦、私たちの揺るがない土台。主なる神は、主イエス・キリストをとおして、ご自身の変わることのない愛を私たちに示して、私たちを捕らえてくださいます。神が御手をもって私たちを捕らえ、支えてくださる。それゆえ、私たちの人生が終わりの日の裁きに耐え得るものとされます。

 主イエスは、ご自身の体なる教会を建てて、神の民の集まる神殿としてくださいました。その教会で、主イエスは今も御声を聞かせてくださいます。私たち自身は御言葉を聞いて行うことが難しいのですが、教会で繰り返し御言葉を聞いて行うことへと励まされます。兄弟姉妹の交わりの中で励まし合いながら、キリストという土台の上に人生を建て上げます。主イエスの御声に聞き、御言葉を聞いて行う者とされ、主イエスを土台とする、とこしえの命へと続く人生を、共に建て上げていきましょう。