2025年11月16日礼拝
マタイによる福音書 7章13~23節
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(13,14節)
「狭い門から入りなさい」。これは門が狭いだけではありません。「命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか」とあり、狭い門から続く道も狭く、細いのです。私たちが人生を歩んでいく、その道が狭いのだと言えるでしょう。この道の狭さ細さは厳しさ険しさと結びついています。平地では道は広く、山に近づくと道は狭く細くなり、起伏があって険しくなります。狭さ細さは険しさを意味し、狭い門から入るとは、道そのものの険しさ、厳しさを表しています。「それを見出す者は少ない」とありますが、見出す者が少なくてよいのではなく、主イエスの願いは多くの人にその狭い門を見出してほしいということです。多くの人に狭い門から入り、細い道を歩んでほしい。その道こそ命に至る道だからです。
狭い門から入り細い道を歩むとは、実のところ、広い道を歩むことです。「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」(詩編84:6,7)。「心に広い道を見ている」とは、心が解き放たれ、広々としているということです。罪と死の力から自由にされるとは、広々としたところ、広い道を歩むようなことです。主が共にいてくださって、たとえ嘆きの谷にあったとしても、心には広い道を見ることができます。主なる神は、そのような慰めと平安へと私たちを導いてくださいます。
15節以下で、主イエスは偽預言者の見分け方を教えて、「その実で彼らを見分ける」とおっしゃいます。信仰は具体的な実を結びます。「信仰と、希望と、愛」とありますが、「最も大いなるものは愛である」と言われます(コリント一13:13)。信仰は愛という実を結びます。神を愛し、人を愛する愛です。偽預言者にはその愛の実りが見られません。21節以下では、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と言われます。ここでも、愛という実を結んでいるのかどうか、問われています。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(コリント一13:2)。信仰は愛という実を結ぶ。心に留めておくべきことです。
命に至る門の狭さ、道の細さは、愛に生きることの困難を表しています。神と人を愛する愛に生きる。その道が厳しく険しいのです。愛に生きようとするとき、自分の我がままな思い、自己中心な心と格闘しなければなりません。自分を低くすること、へりくだることを迫られます。へりくだることによってこそ、人を寛容に受け入れ、分け隔てすることなく互いを尊ぶことができます。信仰者として生きるとは、階段を一歩一歩下っていくような、低きへと向かう道を歩むことです。罪に捕らえられて人を愛することのできない自分に気づかせられ、愛の欠如に悩まされ、自分の心の醜さに涙するような、そのような意味で、厳しく険しい道です。それが、狭い門から入り、細い道を通るということなのです。
いったいだれがその狭い門から入り、細い道を歩むことができるだろうか。そう思います。けれども、主イエスがまずこの狭く細い道を歩んで、十字架につけられるまでに低くなられました。私たちの罪とけがれを背負い、十字架で死に、復活して天の御父のみもとへと挙げられました。そうして、命に至る道を切り開いてくださいました。ですから、今や狭い門から入るとは、主イエスと共に歩むことです。主イエスの御声に聞いて、主イエスに導かれて歩む。そのとき、私たちはへりくだりと謙そんを学び、心に広い道を見る者とされるのです。主イエスに似せられて、愛と憐れみをもって人に仕える者へと変えられます。主イエスに結ばれて、愛の実を豊かに実らせる者とされることを共に祈り求めて参りましょう。

