2025年11月30日礼拝
ルカによる福音書 1章26~38節

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
そこで、天使は去って行った。


 主の御使いがマリアに現れて言います。「おめでとう、恵まれた方」。「おめでとう」は「喜びなさい」、「恵まれた方」は「あなたは恵みをいただいた」という言葉です。続いて御使いは、戸惑うマリアに身ごもることを告げます。「恵みをいただいた」と言われて、身ごもって男の子を産むと知らされる。これがマリアに起こった出来事です。ショッキングで、理不尽に感じたでしょう。結婚生活を始める前に身ごもるというのです。それも、夫となる男性の子ではありません。夫の信頼を失い、離縁されるかもしれません。世間に知られると、石打ちの刑に処せられるかもしれません。いったいどこに神の恵みがあるのか、そう思えます。

 しかし、福音書は、マリアがこのことで苦しみ、嘆いたとは記しません。「どうして、そのようなことがありえましょうか」と言いますが、この「どうして」は「いかにして」という言葉です。「いったいなぜ」ではありません。いかにしてそれが実現するのか。御使いは答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。神のくすしき御業だということです。そこでマリアは言います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。こうしてマリアは、自分に与えられた出来事を、苦しみではなく、神の恵みとして受け止めました。もちろん、何の悩みも困難もないということではありません。ヨセフにどう説明するか悩んだでしょう。みごもったことを周りに気づかれたらどうしようと思ったでしょう。困難はあります。けれども恵みにほかならない。

 マリアは、自分に起こることの背後に神のご計画があることを知りました。神が自分をとおしてご自身のご計画を進めようとしておられること、神の御業の器として自分が選ばれたことを理解したのです。そして、マリアは、自分が神の御業の器とされたことを喜びました。「わたしは主のはしためです」。これは、神の御前に自分が何の価値もない、小さな者であることを告白する言葉です。神の御前に小さく、力のない自分に、神が目を留めてくださった。マリアはそのことを自分の喜びとしました。

 主の御使いが「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げた、その恵みとは、この、神が目を留めてくださったことであり、主が共にいてくださるということです。神が自分に目を留めて、共にいてくださる。神がこのわたしの支えとなり、力となってくださる。

 苦しみや困難は、私たちにとって、ないほうがよいものです。しかし、苦しみや困難の中で神が目を留めてくださっていることを知ることができます。苦しみや困難をとおして、自分が力なく小さな者であることに気づかされ、主が私たちを支え、私たちの力であると知ることができます。主が共にいてくださることを認め、神をほめたたえることへと導かれます。苦しむこと自体は良いことではないでしょう。しかし、そのことをとおして、神は生きて働いておられる、主が私たちと共におられると知ることができる。そこに、苦しみの中で味わう喜びがあり、幸いがあります。

 おとめが男の子を産むこと以上に、苦しみの中で神の恵みを知り、受け止めることができる、この信仰こそが奇跡です。マリアに与えられた最大の恵みは、神のご計画を受け止め、神が目を留めてくださったことを喜びとする、その信仰にほかなりません。そして、今、聖書をとおして私たちにも神の御言葉が与えられ、私たちにも聖霊が注がれています。私たちにも、神の御業、神の奇跡と言うべき信仰が与えられています。すなわち、私たちが何か理不尽な出来事を経験するとき、そこに神のご計画を認めて、恵みを認めるに至る、そのような信仰へと導かれるのです。主なる神は、今、私たちにも、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」とおっしゃっておられます。