2026年9月6日礼拝
ルカによる福音書 12章29~32節
あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(12:32)。最初の教会は、使徒たち11人、ほかの弟子たちを加えてもせいぜい数十人の小さな群れから始まりました。「小さな群れよ、恐れるな」。主イエスのこの言葉を言い交わして、互いに励まし合っていたものと思われます。
「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」とあり、食べること飲むことへの思い悩みがありました。ユダヤ人から迫害されて、キリスト者はエルサレムを離れることを余儀なくされたのであり、住まいや仕事を失うことが起こりました。キリスト者であることは、住まいや仕事を失うことと直結していました。それゆえ、何を食べようか何を飲もうかとは命に直結する真剣な問題であり、互いに支え合い、配慮し合うことが教会の大切な課題でもありました。
今、再びそのような時代が近づいているように思われます。戦後からこれまで、キリスト教は比較的、社会的に広く受け入れられてきた宗教でした。けれども、徐々に日本社会の空気は変わりつつあります。私たちも、肌身でそれを感じながら生きているのだと思います。この思い悩み、恐れは、決して私たちの知らないものではありません。
そのところで、「恐れるな」とは、恐れに支配されてはならないということです。恐れに支配されると、前に向かって歩むことができないからです。恐れに捕らえられると、自分を守ろうとして、心を閉じてしまうことがあり、人に対して攻撃的になることも起こります。恐れに支配されるとき、人は人であることを見失って、立ちすくんでしまいます。ですから、「恐れるな」と命じられます。そして、そのために「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」との御言葉が大切です。ここに、主なる神の約束と励まし、私たちの希望があるからです。
生けるまことの神は、種も蒔かず刈り入れもしない空の鳥を養う、憐れみ深いお方です。ここには地上の国と神の国との対比があります。地上の国は、国民が労働や納税の義務を負い、国家また為政者が秩序を維持し公共の福祉を提供して、双方向で義務を果たし合うことによって成り立ちます。それに対して、神の国は、種も蒔かず刈り入れもしない、それで成立すると言います。働きもせず紡ぎもしない、けれども主なる神は野原の花を着飾らせます。すなわち一方的です。何と不思議なことかと思いますが、神の国は神からの一方的な恵みによって成り立っています。神ご自身が成し遂げる国です。まさに「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」のであり、その恵みに固く立ち、主なる神への信頼と感謝をもって、「ただ、神の国を求めなさい」と命じられるのです。
生けるまことの神は、この恵みの支配の実現のために、尊い独り子を地上に遣わして、十字架に引き渡されました。十字架において、罪と死の力を打ち破り、聖霊を与えて、私たちを主イエス・キリストによって神を知る者、信仰者へと造り変えてくださいます。まさに神の御業です。
「ただ、神の国を求めなさい」とは、この主イエス・キリストによって実現した神の恵みの支配を、地上において広げていくことです。主の祈りで「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るように、神の御心は、ただ天で成し遂げられればよいのではなく、この地において、私たちの生きるこの社会において成し遂げられていくものです。その第一歩であり、中心となることが、神をあがめて礼拝する生活です。神の国は、私たちの力によらず、神ご自身が恵みとして成し遂げてくださいます。そして、私たちの必要は加えて与えられると約束されています。その約束を信じて、ただ神の国を求めて、共に歩み続けて参りましょう。

