2026年7月12日礼拝
出エジプト記 1章1節~14節
ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。
そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。
出エジプト記は、旧約の神の民イスラエルの共通の原体験と言える出エジプトの出来事を伝えています。神はモーセを遣わして、イスラエルの民を、エジプトの国、奴隷の家から導き出しました。この出エジプトは、私たち新約の神の民にとっても信仰の土台とすべき大切な出来事です。
イスラエルの民は、ヤコブの時代にエジプトに移住しました。エジプトで大臣をしていたヨセフが一族をエジプトに招いたのです。エジプトに来たのが「全部で七十人であった」(5節)とあります。そこから始まり、イスラエルの人びとは子を産み、おびただしく数を増しました。肥沃なゴシェンの地を得て、家畜を飼うことで糧を得て生活し、世代が移り変わる中でも守られたのです。「国中に溢れた」(7節)とは、ゴシェンの地に収まりきらないほど、数が増えたということでしょう。
「その頃、ヨセフのことを知らない新しい王が出て」とは、王朝が変わったことだと思われます。ヨセフの時代から300年ほど経って、政治体制が変わったのです。「ヨセフのことを知らない」とは、ただ知っている知らないではなく、ヨセフの時代と決別しようとしたということです。その新しい王朝のもとで、イスラエル人は奴隷とされ、苛酷な重労働を課されるようになりました。新しい王はイスラエル人の人口増加を恐れ、とくにゴシェンの地はアラビア半島に面していて、エジプトの玄関口のような位置であり、戦争に際してイスラエル人が敵方につくことを恐れました。それで重労働を課して虐待し、民族を弱体化させようとします。建設させたピトムとラメセスは、イスラエル人を監視する軍事的な拠点でもあったでしょう。けれども、聖書は「虐待されればされるほど彼らは増え広がった」(12節)と記します。エジプト王の思いどおりには進みません。
イスラエルの人びとがおびただしく数を増した、その背後に主なる神の約束と成就を見ることができます。主はアブラハムに、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう」(創世記13:16)と約束されました。そして出エジプトに際しては、「一行は、祭司を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった」(出エジプト12:37)とあり、女性と子どもを加えると150万人くらいだったでしょう。およそ430年で70人から150万人です。主の祝福にほかなりません。また、エジプトの王がなぜイスラエル人を恐れたのか。それは、300年の年月を経てなお、イスラエル人がエジプト人にならなかったからです。もし、彼らがエジプト人と同化していたなら、エジプトの王がイスラエルの人びとを恐れることはなかったでしょう。神を畏れる助産婦が登場するように(17節)、300年たってなおイスラエルの人びとは神を畏れる民であり続けました。主なる神は、ご自分の民の信仰を確かに保ち、守り抜いておられ、やがて始まる大きな神の御業、出エジプトのための備えとしておられます。
さて、出エジプトは奴隷の家からの脱出ですが、それは罪からの脱出、罪からの贖いを指し示しています。出エジプトの中心には神の贖いの御業があります(12章)。そのことによって、出エジプトは、救い主イエス・キリストの十字架の贖いを指し示す神の御業とされています。主なる神は、かつて小羊の血によってイスラエルの民をエジプトから導き出して、神の民とされました。今、私たちも、イエス・キリストの十字架の血によって罪の中から救い出され、神の民として歩みます。旧約の民も、今の私たち、新約の神の民も、血によって贖われた民にほかなりません。神は、時代も地域も超えて大きく広く、今の日本の私たちにまで及ぶ、たいへん長い御腕をお持ちです。こうして私たちは、出エジプトの出来事を通して、私たちを罪から贖い出す救いの神に出会うことができるのです。

