2026年7月19日礼拝
出エジプト記 1章15節~22節
エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
ファラオは、強制労働を課してイスラエル人の弱体化を図ります。けれども、「虐待されればされるほど彼らは増え広がった」のであり、ファラオの思うように事は進みません。そのため、ファラオは、ヘブライ人の出産を助ける際に子どもの性別を確かめて、男の子ならば殺すよう、助産婦に命じます。出産に際して、生まれた子が男の子ならば素早く殺して、「死産でした」と告げるということです。これはたいへん罪深いことであり、たとえファラオの命令であっても赦されるべきことではありません。
助産婦たちはファラオの命令に反して男の子を生かしました。「ヘブライ人の助産婦」とは「ヘブライ人である助産婦」とも「ヘブライ人を担当している助産婦」とも理解できます。「神を畏れていた」とは、彼女たちがヘブライ人ならば、まことの神を信じる信仰に立って神を畏れていたのでしょう。彼女たちがエジプト人であるなら、まことの神を知って畏れるのではなかったかもしれません。けれども、助産婦として命の尊さを知り、ファラオの命令がいかに人道に反した、神をも人をも恐れぬものだったかを理解していたでしょう。彼女たちは、人として当然のこととして、男の子を生かしたものと思われます。それは神の喜ばれることであり、彼女たちは神を知らなかったとしても神の御心に従ったのであり、それは神を畏れることに等しいのです。こうして主なる神は、イスラエルの民の危機に際して、助けてくださる人びとを用意しておられました。
「ヘブライ人の女は丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまう」という言葉を、ファラオがどう聞いたのかは分かりません。いずれにせよファラオの関心は次のことへと向かい、彼女たちが罰せられることはなかったようです。主なる神は彼女たちに恵みを与えて、「子宝を恵まれ」ました。これは、彼女たちの家が繁栄するものとされたという文章です。子どもが与えられるだけでなく、彼女たちがエジプト人であったなら、彼女たちの一族がイスラエルの民に加えられたということかもしれません。
さて、ファラオは、生まれた子どもが男の子であるならば、ナイル川にほうり込めと、今度は、あからさまに命を奪うことを命じます。しかし、殺すにしても、なぜナイル川なのか。エジプトにおいて、ナイル川は命と繁栄の源であり、礼拝の対象でもありました。「ナイル川にほうり込め」とは「エジプトの神々に聞き従え」ということを意味すると言われます。ファラオが命じた強制労働も、生活の中から精神的な活動、礼拝と信仰を奪い取ることが目的だったと言えるでしょう。奴隷とは、肉体的なこと以上に精神的霊的宗教的なことであり、自覚的主体的に生きることを失うことにほかなりません。実のところ、イスラエルの民は、奴隷としての生活の中で、神の民として生きることを失っていったのです。
今日、私たちが肉体的な意味で奴隷になることはあまり考えられないでしょう。けれども、精神的霊的な意味で奴隷のようであるとは、今も起こるし起こっていることです。私たちは、神に造られた人間として、精神的な領域、信仰的宗教的な自由を決して手放してはなりません。また、助産婦たちのように、神をも人をも恐れぬ命令をしりぞけること、人として当然なすべきことを選び取ることができるようにと思います。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒5:29)。この御言葉をしっかり心に留めて、日ごとの生活に励んで参りましょう。
恐れることはありません。聖書が記すことは、ファラオの命令にもかかわらず、イスラエルの民は増え続けたということです。ファラオの命令は、神の祝福を妨げるものとはなりませんでした。神の民を増し加える、神の御業を止めることは誰にもできません。困難の中でも、神を畏れ、神をあがめて、神の御心に従う生活を大切にして参りましょう。

