2026年9月13日礼拝
出エジプト記 4章1~17節
モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」(1~5節)
それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」
モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」(10~17節)
モーセは、「あなたをファラオのもとに遣わす」(3:10)との主なる神の命令をなおも拒みます。その理由の一つは、イスラエルの民が自分を受け入れないだろうということです。「彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」。40年前にイスラエルの民から拒まれた出来事が、モーセの心になお大きなわだかまりとなっていたことが分かります。命が脅かされるような強い恐怖や衝撃的な出来事を経験して、心身に深い傷が長く残ることをトラウマと言います。私たちは皆、心の傷を抱えながら生きているものですが、このときのモーセもトラウマを抱える状態だったと言えるでしょう。
主なる神は、そのモーセに不思議な御業を示します。杖が蛇になるしるし、懐に入れた手が重い皮膚病にかかり、雪のように白くなるしるし、そしてナイル川の水を地面にまくと真っ赤な血に変わるしるしです。大切なことは、「彼らは……主があなたに現れたことを信じる」とあることです。「主があなたに現れた」とは、神がモーセと共にいるということです。これらのしるしは、イスラエルの民のためという以上に、モーセ自身が主共にいますことを心から確信するためだったでしょう。モーセ自身が確信してこそ、彼らに伝えて説得することができます。ここにはモーセへの愛と配慮があるのであり、神はモーセの心の痛みをご存じなのです。
モーセが主の命令を拒んだ理由のもう一つは、話し下手だということです。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません」。モーセは宮廷で教育を施されましたから、本当に話し下手で、どうにもならないということではなかったでしょう。けれども、宮廷では、実際に弁が立つ人がたくさんいたでしょう。その中でモーセは、自分は弁が立たないと思って、劣等感、コンプレックスを抱いていたものと思われます。また事実、40年前、モーセはイスラエルの民を説得することができませんでした。そのことも、モーセが思いをかたくなにする原因だったでしょう。
主なる神はモーセにていねいに答えます。神が人間を造り、人間に口を与えられました。主なる神が、人の目を見えるようにし、口をきけるようにするお方です。ただし、主のなさり方は、共にいて語るべきことを教えるという方法です。モーセが雄弁になるのではありません。それは、人間が自らを誇ることがないためです。「……神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。……それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。誇る者は主を誇れ」(コリント一1:26-31)。
なお抵抗するモーセに、主はついにお怒りになりますが、それもモーセへの愛と配慮に満ちた怒りです。とりわけ、モーセの代弁者として兄弟アロンを立てると約束されました。これは、モーセが抵抗したからではなく、神のご計画の中に最初からあったことだと思われます。主なる神は、モーセの口となって代わりに語る器をもお与えくださいます。こうして、神の忍耐に支えられて、モーセが神の器として用いられます。
モーセの抵抗を通して示されることは、ひとえに神の忍耐と憐れみです。神が、どれほど忍耐強く人を招いて、用いようとされるのか。神の忍耐のゆえに信仰者とされた自分があり、神に用いられる自分があるのです。また、主なる神は、モーセの心にある痛みと苦しみをご存じで、トラウマやコップレックスを抱えるモーセに、愛と配慮に満ちた励ましを与えてくださいました。そして、この忍耐と憐れみにあふれる神に信頼し、神の御業を待ち望んで、謙そんにされるところに、モーセの歩むべき道がありました。それは、主のしもべとして歩む私たちも同じ道をたどるのです。私たちも、主の御声に聞き、謙そんにされて歩んで参りましょう。

