2026年4月19日礼拝
マタイによる福音書 9章18~26節
イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。
ある指導者が来て、主イエスにひれ伏して言いました。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」。彼は会堂長という立場にある人物でしたが、娘の死に際して自分の立場や地位をすべてかなぐり捨てて、主イエスの前にひれ伏しました。主イエスはその姿に信仰を認められました。それはただ彼の熱心ではありません。自分の小ささ、無力であることを認めて主イエスの御前に立つ。ただ一筋に主イエス・キリストに依り頼もうとする。それが信仰です。その姿を喜んで、主イエスはただちに立ち上がり、彼について行かれました。そして先に申し上げますと、主イエスは少女の手を取って起き上がらせ、命を呼び起こしてくださいました。
そこにもう一人の女性が登場します。少女の家に向かう途中のこと、一人の女性が近づいて、後ろからそっと主イエスの服の房に触れました。後ろからそっと触れるだけ、それも服の房、裾の部分です。彼女は、人混みに紛れて、隠れて事を進めようとしています。この女性は十二年間も病をわずらっていました。出血が長く続くと人前に出ることを禁じられましたから、結婚することも難しかったでしょう。その苦しみの中で、もはや躊躇していられず、おそらく顔を隠すようにベールでもして、人混みに紛れて主イエスに近づいたのです。正面からお願いすることはできない、でも服の房に触れさえすればいやされるかもしれない。そう期待して衣の房に触れました。すると、主イエスはすぐに気づかれたようです。主イエスは、「娘よ、元気になりなさい」とおっしゃって、女性の行為をとがめることなく、彼女をいやし、励まされます。彼女はその言葉にうながされて、おそらく自分のことを打ち明けたでしょう。「あなたの信仰があなたを救った」。こう言われる彼女の信仰も、何も持たず、からの手で主イエスに依り頼む信仰です。ただ一筋に主イエスに期待する信仰です。主イエスは、その信仰の姿を喜んでおられます。
その間、会堂長はじりじりしながら待っていたでしょう。彼には忍耐が求められました。けれども、その忍耐は決して無駄ではありません。女性をいやす御業を目の当たりにして、いよいよ主イエスへの期待が膨らみ、信仰が強められたでしょう。そして、会堂長の家に着くと、主イエスはすぐに少女と向かい合われ、少女の手を取って立ち上がらせてくださいました。主イエスはまことのいやし主、救い主であられます。
こうして、二人の女性のいやしの物語が絡み合わせられるようにして語られています。二つで一つの出来事として学ぶことができるのです。一つには、からの手で主イエスの前に進み出ることこそが救いに至る信仰だということです。何も持たないまま主イエスに依り頼むのでよいのです。もう一つには、生き返った少女は十二歳くらいで、もう一人の女性が病に苦しんでいた十二年と重なります。一方は、十二年間、苦しみと悲しみの中に置かれ、もう一方は、おそらく家族の愛情に包まれて幸せな十二年間でした。その二人が等しく主イエス・キリストに出会って、人生を新しくされています。主共にいます新しい人生を歩み始める者とされたのです。すなわち、主イエスに出会うことが人生において決定的だということです。そして、それまでがどんな人生であっても、主イエスに出会って依り頼むとき、人は真実に立ち上がって生きることができます。死んでも生きるという、新しい命をいただいて生きることができるのです。
主イエス・キリストに出会い、喜びへと招き入れられている。そのことを感謝し、喜びをもって歩んで参りましょう。また、主イエスを知る幸いを与えられている者として、この喜び、主イエスと出会う喜びを証しして、広く語り伝える者でありたい。そう祈り願うのです。

