2026年6月7日礼拝
マタイによる福音書 10章5~15節

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」


 主イエスは、十二使徒を二人一組で遣わされました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と約束されているのであり、二人が祈りながら共に取り組むところに主イエスご自身が共におられます。私たちは決して孤独で送り出されるのではありません。伝道は主イエスが共におられる営みです。

 「異邦人の道に行ってはならない」とは伝道の順序の問題です。「サマリア人の町に入ってはならない」も、主イエスご自身がサマリア人の女性を教えておられ、絶対ダメではなかったでしょう。主イエスは天に上げられるに際して、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じました。それでペンテコステ以降に世界宣教が始まりました。ですから、これは今日の私たちに直接、当てはまることではありません。けれども、私たちも、自分がまず誰から始めるのか、家族や友人のような親しい交わりを大切にすることを教えられるのだと思います。

 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。「ただで受けた」とは、罪の赦しを恵みとして、神からの賜物として与えられたということです。主なる神はすべての人に恵みとして罪の赦しと永遠の命を与えられます。救いは誰にとっても神からの賜物です。神の御前にむなしい者、滅ぶべき者でありながら、恵みとして罪の赦しが与えられます。それを表して、「ただで与えなさい」です。ただで与えるとき、私たちは自らの身を削る必要があります。時間と労力を割くのであり、食事を一緒にするなどお金を使って場を設けることもあります。その犠牲を引き受けることが大切です。受け取る側はただですが、与える側には犠牲が生じます。何よりも神が大きな犠牲を払ってくださいました。御子イエス・キリストの肉と血です。尊い犠牲によって成り立っている「ただで」です。そのことを心に留めて、私たちも自らの身を削って救いの喜びを告げ知らせます。

 「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない」とは、伝道とは経済的な力などを頼みとすることではないということです。また同時に、自分の生活の必要について主に信頼します。「働く者が食べ物を受けるのは当然である」とあります。11節に「ふさわしい人」とあり、必要なものを提供してくれる人たちを主が備えてくださるということです。ですから、すべての必要を満たしてくださる主に信頼いたします。

 「『平和があるように』と挨拶しなさい」。主なる神は、私たちを神との平和、真実の平和に招き入れてくださいます。神からの恵みとして真実の平和が与えられます。私たちはその平和の使者として遣わされます。罪の赦しに基づく平和であり、身体的物理的な平穏無事ではなく、むしろ自分を差し出すこと、自分の身を削ることによる平和です。悔い改めること、身を低くすることが求められる平和なのです。それゆえ、残念ながら、迎え入れられないこと、耳を傾けられないことが起こります。「足のほこりを払い落としなさい」とは、たとえその家の人が裁かれ罰を受けることになったとしても、その責任はこちらにはないというしるしです。

 ただし、心に留めましょう。私たち自身、ただ恵みによって平和に招き入れられたのです。恵みとして悔い改め、身を低くする幸いを与えられました。聖霊が私たちを造り替えてくださったのだと告白するばかりです。ですから、私たちは、聖霊がその方に働かれるよう、祈りをもって平和を告げ知らせます。だれ一人として、神の御前に失われたままでよいのではありません。滅びの道をたどってよい方は一人もおられないのです。私たちが遣わされ、罪の赦しの恵み、平和の福音を告げ知らせるところで、聖霊が豊かに働いて、神の与える平和をご自分のものとして生きることが始まるよう、祈りをもって取り組んで参りましょう。