2026年8月9日礼拝
出エジプト記 2章23節~3章6節

それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。
モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。


 モーセがミディアンに逃れて40年、モーセが生まれてからは80年が過ぎました。イスラエルの民が奴隷にされてからは100年を超えていたでしょう。23節で、「彼らの叫び声は神に届いた」と言われます。これは、ついに時が満ちたということです。2章23節から25節の短い箇所で、原文では神という言葉が5回、用いられています。また、1章14節以来、久しぶりに、ここで神の民がイスラエルと呼ばれます。契約の民としての名前です。神はご自分の契約を思い起こし、ご自分の民を御心に留めて、いよいよ立ち上がられます。神の時が来たのです。

 モーセは、ミディアンの祭司エトロのもとに身を寄せていました。エトロとは、2章13節のレウエルのことです。エトロの羊の群れの世話をしていたモーセは、あるとき、羊の群れを追って荒れ野の奥に入り込み、神の山ホレブに着きました。このホレブとはシナイ山のことです。実際の場所は不明です。「神の山」とは、そこが神の山として知られていたわけではなく、この場所で神と出会う不思議な体験をしたモーセが、その山を「神の山」と呼んだということです。そこでモーセは燃える柴を見つけました。背の低い灌木の一つが炎を上げて燃えているのです。灌木の自然発火はしばしば起こりますから、モーセは灌木が自然発火したのだと思ったでしょう。ところが、その灌木が燃えているのに燃え尽きないことに気づいて、驚きました。炎が上がり、燃え尽きて灰になり、火が鎮まるというのではない。炎が上がっているのに、柴は燃え尽きません。

 燃える柴にモーセが近づくと、呼びかける声がありました。「モーセよ、モーセよ」。その呼びかけに気づいて、モーセは答えます。「はい」。すると、その声は言います。「ここに近づいてはならない。足から履き物を脱ぎなさい。……わたしはあなたの父の神である」。神が語りかけておられることに気づいたモーセは、神を見ることを恐れて顔を覆います。

 燃えているのに燃え尽きない、この柴の出来事は、自然現象として説明することが古くから試みられていて、確かに自然現象として説明できるかもしれません。けれども、モーセがこの出来事を神の御業として受け止めたことが大切です。2節に「主の御使いが現れた」とあり、モーセは炎を御使いの現れと理解しています。燃えているのに燃え尽きないとは、神がそこにおられるしるしであり、生けるまことの神が人間の知恵と知識を超えた大きな御力を持っておられることの表れです。また、主なる神は、「足から履き物を脱ぎなさい」とモーセに命じました。履き物を脱ぐとは、相手に敬意を表すことです。自分の罪とけがれ、小ささと無力さを認めて、神を畏れ敬うことが求められたのです。この出来事が、モーセにとって、神を畏れ敬うことを知る、信仰の出発点となりました。ここから、神に従い、神に仕える、モーセの歩みが始まります。

 このような神を畏れ敬うことを知る経験が、私たちにとっても大切です。それは、今日、御言葉に耳を傾ける礼拝をとおして私たちに与えられます。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)。畏れ敬いつつ、大胆に近づいて、神を礼拝することができる。これが、今私たちに与えられている幸いです。また、このとき、モーセは80歳でした。年を重ねていて、もう遅いということはないのです。さらに、柴が燃えているのに燃え尽きないとは、神の憐れみが焼き尽くす炎にまさるということです。神の憐れみは神の裁きや怒りよりも大きい。それゆえ、イスラエルの民は罪の奴隷から解き放たれて、神の民として生きることへと導かれました。神の恵みと憐れみの大きいことを心に留めて、私たちも神を畏れ敬い、神と人に仕える歩みを重ねて参りましょう。