2026年9月20日礼拝
出エジプト記 4章18~31節

モーセがしゅうとのエトロのもとに帰って、「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです」と言うと、エトロは言った。「無事で行きなさい。」
主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。主はモーセに言われた。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう』と。」
途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。
主はアロンに向かって、「さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした。モーセは自分を遣わされた主の言葉と、命じられたしるしをすべてアロンに告げた。モーセはアロンを伴って出かけ、イスラエルの人々の長老を全員集めた。アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。


 モーセがエジプトに帰ると申し出ると、エトロは「無事で行きなさい」と言って、モーセと家族を快く送り出しました。「妻子をろばに乗せ」の「子」という言葉は複数形です。息子ゲルショムに加えて、モーセにはもう一人、エリエゼルという男の子が与えられます(出エジプト18:5)。この時点では、妻ツィポラが身ごもっていた段階だったものと思われます。

 旅立つモーセの手には神の杖があります。これは地面に投げて蛇になった杖です。主なる神はおっしゃいます。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい」。まさにモーセの手に授けられた奇跡のしるしの杖です。モーセは、杖を手にして、主が共にいてくださる確信を強くし、励まされたでしょう。

 さて、モーセと妻ツィポラ、息子ゲルショムの三人が荒れ野を旅していた、ある夜のこと、主がモーセを殺そうとしたと言われます。「息子の包皮を切り取り」とは割礼のことで、ツィポラはとっさにゲルショムに割礼を施しました。すなわち、ゲルショムはまだ割礼を受けていなかったのです。割礼は、神の民であることのしるし、契約のしるしです。モーセ自身は生まれて間もなく施されていたでしょう。しかし、ミディアン人の習慣の中で生きるようになったモーセは、息子に割礼を施していなかったようです。この出来事は、割礼を怠って契約に忠実でなかったモーセの罪を、主なる神が厳しく問われた出来事だと理解することができます。

 幸いなことに、モーセはツィポラに割礼のことを話していたようです。それでツィポラがとっさに対応することができたのでしょう。教会がキリストの花嫁と言われるように、神の民が花嫁で、主なる神が花婿です。花婿と花嫁が一つに結ばれているように、割礼の血によってモーセも息子も確かに主なる神に結びつけられている。ツィポラの「わたしにとって、あなたは血の花婿です」とは、そういう意味の言葉だと思われます。こうして、モーセは契約を重んずべきこと、主なる神を畏れることを改めて教えられました。ファラオを恐れるのでもなく、イスラエルの民を恐れるのでもありません。ただ神を畏れて、契約に忠実に歩むところで、神のしもべとして祝福されます。この出来事の後、モーセは妻と息子をミディアンのエトロのもとに連れ帰ったようです。モーセが妻と息子、またもう一人の息子と再会するのは、出エジプト後のことになります。

 妻子と別れたモーセは神の山ホレブへ向かいます。主なる神はモーセの兄アロンにも「荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」と命じておられました。二人はシナイ山のふもとで40年ぶりの再会を果たしました。モーセが主の言葉と命じられたしるしをすべてアロンに伝えると、アロンはそれを信じて、受け入れました。一緒にエジプトに帰り、二人はイスラエルの人々の長老を全員集めて、主が命じたとおり、アロンがモーセの口となり手足となって、主がモーセに語られた言葉をアロンがことごとく語り、また民の面前でしるしを行いました。すると、イスラエルの民は信じることへと導かれました。モーセの不安や恐れはまったく杞憂に終わり、モーセは驚くほど順調にイスラエルの人々に受け入れられたのです。

 モーセは、自分の未熟さや力なさを言い訳にして、主の召しを拒もうとしました。しかし、事柄を成し遂げてくださるのは主なる神です。主を畏れて謙そんに仕えたモーセとアロンを主が用いてくださいました。大切なことは、真実に主を畏れ、主に信頼することです。信仰とはいつでも奇跡であり、神の賜物なのだと心に留めましょう。そして、私たちが神を真実に畏れて、神の知恵と力によって仕えるとき、私たち自身の知恵と力は小さなものですが、本当の意味で豊かに用いられるものとされます。主なる神は、私たち小さな者を豊かに用いてくださるお方なのです。