2025年11月9日礼拝
マタイによる福音書 7章7~12節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」


 自由学園を創立した教育者、羽仁もと子さんが、著書『思想しつつ生活しつつ(中)』で書いておられます。「私たちの精神生活の二つの動力の一つは『やってみよう』と自ら励ます力で、一つは『駄目だ』と抑える力です」。私たちの心には「やってみよう」という気持ちと「どうせダメだ」という気持ちが並んであって、その「どうせダメだ」という気持ちが私たちの心を鉛のように重苦しくする。「よし、やってみよう」という気持ちが大きくなると、立ち上がることができる。そうおっしゃいます。

 「やってみよう」と「どうせダメさ」という気持ちがいつも並んで私たちの心の中にある。それは、主なる神が私たちをそのようにお造りくださったと言うほかありません。天地の造り主である神は、私たちをご自身に似せて造られました。それは、自ら思い巡らし、考え、そして選び取る、そのような主体的な存在、意志的存在として、私たちをお造りくださったのです。それゆえ人間は尊いのだと言えるでしょう。

 そして、主イエスは「求めなさい。捜しなさい。門をたたきなさい」とおっしゃいます。神は力尽くで私たちをご自身に従わせるのではありません。けれども、「やってみよう」と「どうせダメさ」が並んである私たちに、どちらでも好き勝手に選んだらよいと、放り出すようにしておられるのではありません。神は、私たちが求め、捜し、門をたたくことをこそ願っておられます。そうして神の国と神の義を求めて生きることを選び取るように、主イエスは、主なる神は、待っていてくださるのです。

 「求めなさい」と命じられるとは、実のところ、福音、よき訪れにほかなりません。迷いがあり、躊躇してしまう私たちです。その私たちの背中を主イエスご自身が押してくださいます。「どうせダメだ」と立ち止まってしまう私たちですが、命じられるので、ようやく前に進むことができます。命じられるところにも神の憐れみと慈しみがあるのです。

 そして求めるとき、「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と約束されます。「あなたがたは悪い者でありながらも」とある通り、罪の中にあって、悪いことをしてしまうことがある私たちです。しかし、その私たちも、自分の子どもには良いものを与えることを知っています。まして父なる御神は良いものを豊かに与えてくださるには決まっているではないか。主イエスはそう約束されます。

 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」は、「黄金律」と呼ばれます。「人からされていやなことは、あなたもしてはならない」という否定的な表現のほうがよく知られているでしょう。主イエスは、それを言い換えて、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と積極的な表現で教えました。「人からされていやなことは、あなたもしてはならない」では、しないという消極的なことで終わります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」の場合、そこから人間関係が始まって、交わりが広がることへと向かいます。それは、天の父が関係性を造り出すお方だからです。それゆえ、「あなたがたも人にしなさい」と命じられます。

 私たちは、「やってみよう」という気持ちと「どうせダメだ」という気持ちの間で心が揺れ動き、立ち止まりがちになります。前に進む力、生きる勇気を失ってしまう。主なる神は、その私たちに前に進む勇気と力を与えてくださるお方です。人生には労苦があり、応援してもらうことが欠かせません。それは、ほかでもない主なる神が私たちの人生を応援してくださるのです。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」、そうおっしゃって、主なる神は今も私たちを励まし応援してくださっています。