2026年3月8日礼拝
マタイによる福音書 9章9~13節

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


 主イエスは、収税所に座っていたマタイに声をかけ、「わたしに従いなさい」とおっしゃいました。マタイは「主の賜物」を意味し、マタイ福音書を執筆した人物だと考えられています。おそらく賜物豊かな人物だったのでしょう。このとき、どうしてマタイがすぐに主イエスに従うことができたのか。どこかですでに主イエスに出会っていたのか、何か備えがあったのか、そのあたりの事情は分かりません。当時の徴税人は私腹を肥やすことが多く、盗人と同列に見られていました。ガリラヤは異邦人の領主ヘロデが治めていて、徴税人は外国人の手先とも見られ、毛嫌いされていました。それゆえ、彼はあざけりやねたみの対象だったでしょう。それで友人や仲間を失い、寂しかったのかもしれません。徴税人の仕事に心の痛みを感じていたのかもしれません。明らかなことは、主イエスが主導権を持っておられるということです。マタイは、主イエスに捕らえられて、すぐに立ち上がり、主イエスに従う者とされたのです。

 さて、マタイがこのとき主イエスに従ったとは、徴税人の仕事を捨てたことを意味します。聖書は、一方では「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」(コリント一7:17)と教えます。私たちは召されたときの状態のままで主に従うことができます。もう一方で、「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」(コリント二6:14)とあり、不釣り合いな軛から離れることが求められる場合もあります。職業そのものに罪がまとわりついていたり、誘惑の多い環境であったり、ということです。マタイの場合はこちらだったのでしょう。マタイは、その環境から引き離されて、主イエスに従う者とされました。主イエスの招きには、職業と生活までも具体的に造り変える、大きな力があるのです。そうして、私たちの人生を、主御自身が導いてくださいます。

 マタイは食事の席を設けました。彼は徴税人であることを捨て去りましたが、それは人間関係を捨て去ってしまうことではありません。彼は、かつての仲間を主イエスのおられる食事の席に招きました。それは、ファリサイ派の人びとから、「なぜ徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と批判されるようなことでした。けれども、「徴税人や罪人」には、マタイのありのままの姿があらわれています。主イエスは、このマタイの設けた食事の席に加わり、その交わりを喜ばれました。人の目にはけがれていると思われたマタイの家が、こうして主イエスによってきよめられ、用いられます。ここにマタイの悔い改めと感謝があると言えるでしょう。

 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。神を愛することが大切だと言って犠牲のいけにえばかりを重んじて、隣人を愛して支え合うことを軽んじる、それでは愛があるとは言えません。神を愛することは人を愛することによって表されます。自分たちが聖くあることばかりを求めるならば、信仰の健やかさを失うことになりかねません。

 マタイは、それまでの自分の生活を隠すことなく、すべてを差しだして、仲間を主イエスのもとに招きました。そのように、信仰者として生きるとは、ありのままで受け入れられ、自分をさらけ出して生きることができるということです。私たちは自分のうちにいろいろな弱さやけがれがあり、取り繕わないではいられません。けれども、取り繕うことを繰り返していると、いつの間にか自分が本当はどんな存在なのか、自分でも分からなくなってしまいます。主なる神は、そのような重荷から私たちを解き放ってくださいます。招いてくださる主イエスにお従いする。その決意と志だけが求められています。そうして、だれもが主の賜物、神からの恵みによって造り変えられて、新しい命に生きる者とされるのです。