2026年7月26日礼拝
出エジプト記 2章1節~10節
レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。
王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」
「ナイル川にほうり込め」とファラオが命じて、死すべき者とされる中で、モーセは生まれました。「その子がかわいかった」とは、神の目に適って美しいとも、親は自分の子がかわいいものだとも、理解できます。いずれにせよ、かわいい我が子を見捨てることはできません。両親はモーセを隠して育てます。しかし、隠して育てる者を見つけて密告する者がいたのでしょう。三か月ほどで隠しきれなくなりました。それでモーセの両親は防水を施したパピルスの籠を用意し、幼子を寝かせて、ナイル川に置きました。葦の茂みに隠れて、流れていかないようにしたのです。
幼子モーセはナイル川に委ねられました。ファラオからすると、命と死を司るのはエジプトの神々で、イスラエルの神が止めることはできない、となるはずでした。けれども、主なる神は不思議な御業を成し遂げられます。それは、ファラオの王女に幼子の籠を見つけさせるということでした。王女が川に下りてくるとは、人間的に言うならば偶然です。もしファラオの家族がその辺りで水浴びすることを知っていたなら、むしろそこを避けたでしょう。ファラオの命令に従って殺されるとしか思えないからです。ところが、驚くべきことに彼女はヘブライ人に同情的で、ファラオの命令を批判的に受け止めていたものと思われます。彼女は、籠の中の男の子がヘブライ人の子だとすぐに気づき、憐れに思い、同情しました。
モーセの姉ミリアムがモーセの籠を遠くから見守っていました。見守るといっても、ずっと見ていたのではなく、ときどき見に来ていたのでしょう。発見まで数日は経っていたと思われます。ですから、これも偶然と言えば偶然です。様子を見に来たちょうどそのとき、彼女はモーセの籠が引き上げられるところに出会いました。「乳を飲ませる乳母が必要ね」などと言っているのが聞こえたのでしょう。彼女は王女のもとに駆け寄って言います。「この子に乳を飲ませるヘブライ人を知っています。そのヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」。王女は、その乳母が実の母親であると気づいたでしょう。その上で、男の子を自分の子とすることとし、乳母のもとで育てるということで母親に引き取らせました。こうして王女とミリアム、この二人を主なる神が備えておられたと言うほかありません。
モーセは3歳の頃まで、実の両親のもとで育ったと推測されます。その間、ヘブライ人として育てられ、主なる神を信じる信仰の訓練が施されました。その後、モーセはファラオの王女のもとでエジプト人として育てられます。王女が名付けたモーセという名前はヘブライ語「マーシャー」に由来するヘブライ人の名前ですが、同時にエジプト人としても通用する名前だそうです。モーセを自分の子として育てるに際して、ヘブライ人であることを捨てさせるという教育ではなかったものと思われます。モーセは非常に寛容な、理解のある女性のもとで育ちました。「モーセは、エジプト人のあらゆる教育を受け、素晴らしい話や行いをする者になりました」(使徒7:22)。モーセは、宮廷での教育すなわちエジプトの中でも一級の教育を受けました。ファラオの企みにより、かえってファラオのお膝元である宮廷で、イスラエル人を救い出す神の器が養われたのです。
モーセの誕生は、私たちを救い出す神の御業のしるしです。死すべき者として生まれたモーセが命へと移されました。「わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、……死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)。死から命へ。これが主なる神の救いの御業です。また、ナイル川に揺られるばかりで力ないモーセが命を得る者とされました。私たちが神を信じて救いに入れられるのも、同じだと言えます。私たちの無力は、神の御業の実現において、何の妨げにもなりません。救いの御業を確かに成し遂げてくださる神に信頼して、共に歩んで参りましょう。

